装剣小道具を楽しむために 30

Tsuba
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國重・南蛮鐔
Kunishige ・ Namban-Tsuba

南蛮趣味



@人物大小図鐔 無銘南蛮 縦72.5ミリ


A唐草文図鐔 無銘南蛮 縦100ミリ

 
B波龍図鐔 銘 平戸住國重造 縦84.5ミリ

 
C波龍図鐔 銘 平戸住國重造 縦72ミリ


D霊獣図縁頭 無銘南蛮 縁37ミリ

 南蛮とは、古代中国が朝廷(中央)に対して北に居住していた北狄(ほくてき)の呼称と同様、南に位置するインドシナや南洋諸国を差別して指す言葉であった。その後我が国でも、室町時代に東南アジア諸国を経由して渡来した西洋文化を呼ぶようになり、特にオランダと分ける目的でポルトガルやスペインの文化を指し示した。以上は歴史的なことであるが、鐔などの装剣小道具についても、おおよそは同じである。
 南蛮工芸という言葉を用いる場合、二つの対立する認識がある。一つは東南アジアを通じてもたらされた西洋の文物であり、もう一つは、逆に西洋に輸出された、南蛮(西洋)人好みの工芸品である。
 前者は舶来した西洋の文物。後者は我が国の特産品でもある蒔絵作品などで、室町末期から江戸時代にかけて西洋に輸出されたものが、明治に降って逆輸入されたことにより南蛮物の意味と価値が生じたともいえ、元来の南蛮物とは意味が異なっている。そして装剣具では、基本的に前者のような南蛮渡来の様式を指している。
 ところが、我が国に舶載された南蛮物の中には、西洋で製作されたものではなく、我が国に輸出する目的で東南アジアや中国で製作した作品も多く含まれている。さらに、我が国の金工によっても模倣され、西洋や中継地である中国の文様を発展させた新たな意匠の作品が生み出されたのである。実はこうした、我が国で発展した南蛮金工こそが、南蛮美術の中でも最も重要視するべきものであり、また、研究せねばならない存在、そして魅力溢れる作品と言えるのである。
 我が国における南蛮金工の製作地は、肥前国平戸島や長崎などその近郊、そしてこれらの金工が移住した長門国や山城国・江戸・陸奥国会津などである。ところが、現代に遺されている南蛮鐔の数が極めて多いという事実がある。異風な意匠が要因であろうか江戸時代に大流行したと推測され、その内容は丁寧なものから粗雑なものまで玉石混交、中には有名金工の手慰み作品もあるのではないかと考えている。
 写真@は鉄地を肉厚に造り込み、地を密に彫り込んで唐草文を複雑に、しかも立体的に絡ませて彫り表わし、表面には金の布目象嵌を施している。このような鐔の多くは図柄が左右対称の向かい合った双龍文で、龍の表現は草体の場合が多い。また、写真例のような人物の図は稀少で、しかも彫口は丁寧。笛を吹く大人の西洋人に太鼓を打つ唐子の取り合わせは、中国の意匠を取り入れたことを意味している。
 唐草文を天衣の如く動的かつ大胆に意匠した写真Aの鐔は、婆裟羅の意識にも似た、桃山時代の未だ戦国の気風が残る作。鐔の構造と製作は我が国のものながら、図柄には明らかに西洋の趣がある。鉄地に肉高い鋤出彫による唐草文は渦巻くように力強く、また、銀の布目象嵌を地面に施しており、その黒色化した様子には重厚な味わいがあり、この時代の武士の意識を映し出しているかのようである。
写真BとCは江戸時代中期の肥前の金工、國重によって製作されたもの。真鍮地を深く彫り込み、龍と波立つ海原を高彫に表わし、Bは耳にアルファベットを文様として取り入れ、これらに金の色絵を施している。
写真Dは、霊獣であろうか空想の生き物を左右対称の意匠になる西洋風の文様で装飾した縁頭。素銅地高彫に金の色絵を施しており、國重の作と同じ趣向である。
肥前国長崎は江戸時代にオランダに開かれていた都市であり、この近隣を活動拠点としていた金工は少なからず西洋の影響を受けている。國重の他にも矢上光広などが中国の細密工芸の影響を受けたものであろう、千匹猿・群烏・鉈豆の蔓を題に得るなど、立体的密雑に組み合わされた文様を鐔全面に展開するを得意としている。


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企画 株式会社銀座長州屋  著作 善財 一
月間『銀座情報』(銀座長州屋発行)及び『装剣小道具の世界』 (里文出版発行『目の眼』)連載中 Copyright. Ginza Choshuya. Hajime Zenzai. 2009.