装剣小道具を楽しむために 24

Tsuba
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宮本武蔵
Miyamoto Musashi

瓢箪鯰…禅に生きた武蔵


 
瓢箪鯰図鐔 無銘 宮本武蔵 素銅地竪丸形高彫毛彫 縦76ミリ

 戦国時代という特殊な世相は、明日の存在を確約されない武士たちに、死を通して自己を知る特殊な意識を芽生えさせた。そしてその後に訪れた平和は、戦国時代を生き残った武士に自己を見つめる時間を与えたのである。
 江戸時代初期、各地に武道が興ったものの、剣術は戦のためのものではなくなり、武士は武術を通じて己の信念を世に知らしめ、道という観念の世界に剣と剣の交わりを見出し、次第にその閉塞した世界で術を磨き上げざるを得なくなっていった。
 だが、そうした枠組みを拒否し、独自の路を切り開いた武人もいる。その幾人かの剣術家は幕府の策謀に陥って潰えたが、逆に時流を利用した剣術家は幕府や大名家の意思を実体化し、その庇護を受けることとなった。
 後者が柳生一門であり、宮本武蔵(一五八四?〜一六四五)もまた生き方は異なるがその一例と言えよう。
 武蔵は剣術家であり、剣を通じての自己表現者であり、また禅を体現し続けた人物であった。その最も有名な遺品が、鯰に題を得た写真の鐔である。
 鎌倉時代の武家の思想に適応して広まった禅の教えは、時代が下がって室町時代には、中国よりむしろ我が国で醸成された独自の文化として、絵画表現にも深く影響を与えていた。そこでは、禅の教えは武家の教養や知的な遊びとしての意味を持っていた。
 京都の妙心寺退蔵院に伝わる瓢鮎(瓢箪鯰)図は、如拙(じょせつ)が将軍足利義満(一三五八〜一四〇八)または義持(一三八六〜一四二八)の命で描いたもので、同時代を代表する三十一人の高僧が画賛を添えている。これは「鯰を瓢箪で捕らえることができるであろうか」という問い掛けと、その答えである。形式は禅の公案ながら、一つの問いに大勢の高僧が真剣に答えを見出そうとしている、言うなれば禅を通じたゲームの様相が画賛から浮かび上がってくる。
 つまり「瓢箪で鯰を捕えるという難しいことに挑戦しながらもそれは恐らく達成できない。すなわち徒労を意味する画」という解がそこに窺えるのだが、義満(義持)〜如拙〜三十一人の僧という線上において、『瓢箪で鯰を捕えるという不可能を真剣に考える』という禅のゲーム、その結果が絵画として遺されていると言い得るのである。
 ところが、禅を通じて武士道を生きた武蔵は、この義満(義持)の問いかけに真剣に答えを出そうとしていたと思われる。生き方もそうだが、自らの手で瓢箪鯰図鐔を作り出したのである。
 もちろん武蔵の生きた時代の禅はゲームの禅ではなかった。死地を生き抜いた武士は戦後をどのように生きるべきか、自問の結果の禅であった。戦国武士にとって、正義は生き続けることであった。生きるために相手を倒す、その思考の到達点が武士道であり、武蔵は戦後の武士の道を真剣に問い続けたのである。その一つの方法が、古人の求めた『瓢鮎』の問い掛けに答えを見つけ出そうとする困難を、敢えて自らに課すことであった。
 武蔵の手になる写真の瓢箪鯰図鐔は、素銅地を竪丸形に造り込み、素朴な鋤下高彫の手法で巴状に組み合わせた鯰と瓢箪を彫り表わした作。両者は墨絵のような毛彫によって飄逸な表情を示し、また、素銅地は色叢を呈して時の流れを如実に示しており、表面の槌目や毛彫も自然味があり、全体に古寂な風合いを滲み出している。

 現在は美作市(旧大原町)武蔵資料館所蔵。


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企画 株式会社銀座長州屋  著作 善財 一
月間『銀座情報』(銀座長州屋発行)及び『装剣小道具の世界』 (里文出版発行『目の眼』)連載中 Copyright. Ginza Choshuya. Hajime Zenzai. 2009.