装剣小道具を楽しむために 21

Tsuba
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一宮長常
Ichinomiya Nagatsune

蛍の光は今いずこ




         

車胤図小柄 銘 長常(花押) 朧銀磨地片切彫平象嵌 長さ97ミリ

 夕暮れ時の川沿いをそぞろ歩く、その足元に舞い上がる一点の光。まさに草の露が光ったような、一しずくと表現すべきほのかな光が舞い上がる。
 虫籠を手に、闇に沈んでゆく草叢を覗きこみ、葉陰に小さな光を見つけてそっと手をのばす。蛍はのんびりとした動きで、時には掌の上でまたたく。微かな光が包んだ指の隙間から漏れ出、移された虫籠の小さな空間が闇の中にぼうっと浮かび上がり、寄せた顔に緑の光が映る。
 長野県で育った筆者の、子供の頃の思い出である。今ではその蛍も数が減り、各地で蛍の自生地再生が行われているが、かつて見た蛍の光の乱舞という自然の神秘と驚異の再体験は、おそらく不可能であろう。
 一昔前の小中学校の卒業式には唱歌『蛍の光』が定番であった。勤勉であれとの教えであり、中国の古い伝承がその背景にある。
 儒教国家であった中国では、貴族の子は貴族、商人の子は商人、農家の子は農家と、職業選択の余地などなかった。貧しい者の中にはこれに反するように、努力を惜しまずさらなる上の生き方を望んで勉学に励んだ人々もあり、その記録には、中には奇抜すぎて反感を覚える例もあるが、今でも心が揺さぶられることも多い。
江戸時代には、この伝承を含む多くの人々の生き様を集成した、道徳の教科書のような書物が活用されていた。『蒙求』である。武士も商人もこれを学んでおり、『蛍の光』はその説話の一つであった。
 だが、蛍を集めてその光の下で本を読む、雪明りで本を読むなど唱歌『蛍の光』に登場する場面を思い浮かべ、あるいは現代の子供たちに話して聞かせても、現実とは遠く離れた環境から、「昔は電気がなくて大変だったんだね」で終わってしまうのであろう。
 装剣小道具に描かれている図柄や場面は、総てになんらかの意味があって描かれたものである。武士が武士としての行動を全うするべく、己を律するための古い教えを装剣小道具に仮託して身に着ける。文字による表現もあろうし、故事を暗喩する図の場合もあったろう。この小柄に描かれている、『蛍の光』の題材となった中国晋代の車胤(しゃいん)の図はその典型例である。
 製作したのは江戸時代中期の京都金工一宮長常(一七二一〜一七八六)。正確な構成になる写実的人物表現を得意とし、特に片切彫(かたきりぼり)と平象嵌(ひらぞうがん)を組み合わせた筆絵風の名品を数多く遺している。
 この小柄は、色合い黒い朧銀(おぼろぎん)地を磨地に仕上げ、活力に満ちた片切彫に細く太くと変化のある毛彫を組み合わせ、要所に金と赤銅の平象嵌を施し、蛍の明りを頼りに書を読む車胤の姿を描き表わしている。左端に描かれた蛍は、そのほのかな明りをわずかに色の異なる金の平象嵌で表わしている。
 車胤が勉学に励んだのは官人となる以前の若く貧しい頃のことだが、ここに描かれているのは老後の姿。年老いてもなお勤勉さを失わず、気難しいまでに真直ぐな生き方をしたであろう車胤は、おそらく長常にとっても手本とすべき人物像であったに違いない。なぜか、描かれている本を手にする車胤の姿が、想像の上ながら長常の姿に見えてきてしまう。
 蛍狩りの風情も、車胤が示した『蛍の光』の勤勉さも、遠い過去のものとなってしまったのであろうか。


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企画 株式会社銀座長州屋  著作 善財 一
月間『銀座情報』(銀座長州屋発行)及び『装剣小道具の世界』 (里文出版発行『目の眼』)連載中 Copyright. Ginza Choshuya. Hajime Zenzai. 2009.