装剣小道具を楽しむために

Tsuba
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加納夏雄
Kano Natsuo

京都貴船神社相生の杉


 
雨下老杉図鐔 銘 夏雄(花押) 鉄石目地泥障木瓜形高彫象嵌打返耳 縦73.5ミリ

 樹木は時として数千年の生命を保つことがある。万年杉と呼ばれるような老木や大樹の生命は、人々の意思や操作が及ぶものではないが故、太古の人々は老木に対して人間を超越した存在を感じており、これが自然神であった。確かに、古代人ならずとも、我々もまた、老木の前に佇みその木々の息吹や風と枝葉の触れ合う微かな音を耳にするとき、そこに精霊を感じとることがある。
 新たな年を迎えるに当たり、高い山に満ちた静気を体内に取り入れることによって長命を得るという習俗は、このような自然に身体を委ねる太古の時代の精霊信仰に繋がるもので、時代が移り変わろうとも、現代においてもなおその認識は色褪せてはいない。
 幽気に触れるべく、凍てつくような清い水を浴びてなお谷を遡り、山深く分け入り、その清水の滴り落ちる源に到達したとき、心は浄化され、古代の信仰にあるごとく、自然の発する静気を得て長命を得るのであろう。
 名工加納夏雄(かのうなつお・一八二八〜一八九八)がこの鐔で求めたものは、まさに人の関わりを拒否するかのように神がかり、厳然として深山に起ち込める幽気の表現、自然神への畏れにほかならない。
 夏雄の描いた図柄は多方面に及び、機知に富んだ洒脱なものから和漢の歴史風俗、伝統美を追求した重厚なものまで様々。中でも我が国の古典的風景や自然観を、近代的な視線で捉えた作品に優れたものがあり、花鳥などを主題に空間を切り取って再構築する感性は卓抜である。
 さて、この鐔に描かれている場面は、太古の時代より神の宿る地として崇められていた、京都の北に鎮座する貴船神社に取材したもの。
 貴船神社は鴨川の上流、貴船川を遡る山中に位置し、古くは平安京の水源として祀られ、日照りや長雨の際には神事が為されたと言われる。日照りが続いても枯れることのない御神水と呼ばれる湧水は現在でも健全であるが、さらに山中に分け入ると谷は狭まって急峻となり、岩場を駆けるように水が落下する光景が目前に迫り来る。真夏でも冷気満ちて涼しいこの神域には、根を一つにして二本の幹を天に伸ばす、相生の杉と呼ばれる樹齢千年の杉の大樹がある。これもまた神宿る樹木として古くから崇められており、謡曲にも採られている。
 夏雄が描いたこの鐔の老杉は、二本の幹を支えあうように寄り添ってそそり立つこの相生の杉であり、表の急峻な流れは、近隣の谷にみられる幾筋かの落水である。谷を走る水は尽きることなく、風は止むことなく、雨が吹き付ける。その雄大な自然の一場面を切り取り、神の存在を表現しているのである。
 緊密に詰んだ鉄地を、ごくわずかに切り込みを設けた形に造り込み、耳を打ち返して地を微細な石目地に仕上げ、主題を独特の動きのある高彫で描写し、吹き付ける風雨は心象的彫り様で動的に表現。谷水を銀で、草を金の象嵌で象嵌し、ここも夏雄らしい趣深い表情としている。


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企画 株式会社銀座長州屋  著作 善財 一
月刊『銀座情報』(銀座長州屋発行)及び『装剣小道具の世界』 (里文出版発行『目の眼』)連載中 Copyright. Ginza Choshuya. Hajime Zenzai. 2009.