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Tsuba
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岩本昆寛
Iwamoto Konkan

江戸前に生きる漁夫 人間の描写


 
月下釜洗図鐔 銘 岩本昆寛(花押) 鉄地高彫金銀素銅象嵌 縦73ミリ

 江戸は、水郷に繁栄した大坂という商業都市をモデルに、徳川家康により中世の武士社会のそれとは質を異にする、より経済性を追求するべく開発された都市であった。それ故に開発が進められた初期の江戸には多くの労働者が駆り集められ、あるいは埋め立て工事などでは江戸時代三百年を通じて多大な労働力が必要とされていた。
 ところが時代が下ると、初期の構想を遥かに越える人々が集まって新たな江戸が機能しはじめ、あるいは独自の文化が生みだされるに至る。この都市を構成する人々の生き様こそが都市そのものとなり、結果として、家康が想像し得なかった江戸が出現することとなったのであった。
 さて、江戸の南に広がる波静かな入り江は江戸人の生活を潤す漁場で、江戸前と呼ばれ親しまれていた。この海も、家康によって構想された江戸という都市に欠かせない存在で、江戸風なる文化を構成するに重要な位置にあった。後に葛飾北斎や安藤広重などの多くの絵師が江戸前の海に視点を置き、ここに生きる人々に題を得て同時代を絵画に残してきたことも良く知られている。
 金工岩本昆寛(いわもとこんかん・一七四四〜一八〇一)もこのような江戸を描いた一人。この鐔では、月明かりの寂しげな夕暮れ時の小舟にて飯炊きの釜を洗う漁師を捉え、詩情溢れる作品に仕上げている。
 岩本昆寛は極めて世俗的な生き方をし、深川の芸者を妻にしたとも言われ、粋でいなせな江戸っ子気質を示した人物であったことが知られている。それ故に身近にある江戸独特の光景に心動かされ、深川辺りに取材したのであろう。特に同じ着想からなる作品として、岸辺の小舟から四つ手網を打つ漁師を題に採った鐔の存在などを併せて考察すると、一連の作品の製作意図がおぼろ気にも起ち現われてくる。
 この鐔の図では雲間に隠れる月が重要な意味を持っている。釜を洗いつつ彼方の月を見やる老漁師の姿から、一人江戸に出て侘しい生活をしている我が身、そして故郷に残してきた妻や子供を思い浮かべている、そのような心模様が想像される作である。
 実はここにこそ現実の問題がある。この鐔が単に叙情性を追求しただけの作品ではなく、自らが生きる世の不安要素(全国的旱魃一七七〇・江戸行人坂大火一七七二・浅間山噴火及び天明の大飢饉一七八三・関東から東北に洪水一七八六・諸国で打毀し一七八七など)が、あるいは江戸という巨大な社会の蠢きが、この図柄の背後に浮かび上がってくることを禁じ得ない。この鐔が暗に示している江戸の世相から目をそむける事はできないのである。
 この鐔は、耳際の肉をわずかに落して碁石形に仕立てた鉄地を、微細な石目地に仕上げて渋く深い光沢を滲ませる肌合いとしており、これによって静かに迫りつつある夜の静寂を表現している。碁石形(ごいしなり)の耳と地の曲面は天空の広がりを表現するに効果的で、耳際に描かれた月と、裏面の帰雁の布置によってその印象がさらに高められている。表の彫口は高彫に金銀の象嵌で肉高い表現、裏は薄肉に彫り表わして距離感と空間の広がりを演出し、また、深みのある朧月の銀象嵌と地面の地叢(じむら)処理により、この場を包む空気感までも表現している。釜を洗う手を休めてふと月を見上げる老漁師の哀感漂う姿は、彫口精密で表情も豊かである。


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企画 株式会社銀座長州屋  著作 善財 一
月刊『銀座情報』(銀座長州屋発行)及び『装剣小道具の世界』 (里文出版発行『目の眼』)連載中 Copyright. Ginza Choshuya. Hajime Zenzai. 2009.