装剣小道具を楽しむために

Tsuba
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後藤一乗
Goto Ichijo


西鶴と一蝶と一乗と


朝妻舟図鐔 銘 後藤法橋一乗(花押) 赤銅石目地泥障木瓜形高彫金銀素銅色絵 縦68ミリ

 近江国琵琶湖の東岸に位置する天野川の河口辺りは奈良時代より東西の交通の要所として栄え、朝妻と呼ばれたこの街には遊興の宿が並び、遊女は琵琶湖を行き交う小舟の中で旅人の相手をしたという。小舟を用いたこのような遊興を朝妻舟(あさづまぶね)と称し、江戸時代には既に伝説となっていたようである。
 これを風俗画として描き表わしたのが、元禄頃の絵師英一蝶(いっちょう・一六五二〜一七二四)であったことはあまりにも有名。因みに一蝶は徳川綱吉が寵愛したお伝の方を朝妻舟の遊女に見立てて描いたことにより、三宅島遠島の刑に処されたとも噂されている。この事件が話題に上った故であろうか、以降、朝妻舟に題を得た多くの作品をみる。
 朝妻舟図が描かれた背景には、井原西鶴(さいかく・一六四二〜一六九三)が著した『好色一代男』(一六八二)があったことが想像される。ここに「本朝遊女のはじまりは、江州朝妻、播州室津…」と記されているように、人々は伝説となってしまった朝妻舟の遊女に哀れみを感じると同時に人間の本性をも感じていたのであろう。ところが伝説の朝妻舟は、一蝶の朝妻舟図(一六九七) によって人々の脳裏にその姿を鮮明に浮かび上がらせることとなったのである。
 この図を装剣金工に彫り描いたのは横谷宗a(そうみん)・河野春明(はるあき)・加納夏雄(なつお)などが知られているが、いずれも白拍子がうつむき加減に顔を伏せて舟に揺られるという図が多い。ところがここに紹介する後藤一乗(一七九一〜一八七六)の作品は、今に残されている幾つかの一蝶の画や宗a・夏雄の金工作品とは図取りが異なっていることに気付く。
 この鐔に描かれている悲しみを湛えた女性を観察すると、烏帽子や袴を着けた白拍子という出で立ちではなく、舟中(鐔裏面)に烏帽子・袴らしき衣・扇・鼓を無造作に置いている。しかも立ち姿で棹を手にし、舟を操っているのである。つまりこの白拍子は一蝶の描いたお伝の方を暗示させるものではなく、一乗は琵琶湖にかつて存在した遊女の姿、伝説の朝妻舟そのものの表現を意図していたのではないだろうかと思われるのである。
 創作された時代は不明ながら、播州室津の遊女を題材とした謡曲の『室君(むろぎみ)』がある。室津は『好色一代男』にも採られているように、遊女発祥の地の一つともいわれ、江戸時代を通じて遊興の盛んな港であった。
 謡曲『室君』には、遊女を小舟に乗せて神前に集め、囃子を奉納する神事の場面が採られており、舟に棹をさして集い来る遊女の姿が描き出されている。謡曲で象徴化されている遊女の姿は、この鐔の図のように小舟を棹で操り来るそれなのである。
 一蝶が刑罰を受けた朝妻舟図とは、実はこの一乗の作品のように、棹を手にして舟を操る、明らかに遊女を意識した白拍子であった。しかも、『百人女臈』と題して諸大名の奥方を揶揄した内容であったことが刑の原因である。
 一蝶以降の多くの絵師は一蝶が描き直した白拍子坐像の朝妻舟図を手本としているが、徳川家の御用を勤めた一乗は一蝶が為したような社会批判とせず、朝妻舟の本来の姿を手繰り寄せ、遊女を描き出すことによって古典に光を当てたのであった。
 この鐔は、赤銅(しゃくどう)地を微細な石目地に仕上げ、高彫に金・銀・素銅の色絵を施し、金の真砂子象嵌(まさごぞうがん)を散らすなど華麗な表現技術を駆使した作品であり、一乗の創作意識を反映して情趣深い。


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企画 株式会社銀座長州屋  著作 善財 一
月刊『銀座情報』(銀座長州屋発行)及び『装剣小道具の世界』 (里文出版発行『目の眼』)連載中 Copyright. Ginza Choshuya. Hajime Zenzai. 2009.