Gallery 6

高倉天皇・仕丁紅葉焚(たかくらてんのう・しちょうもみじたき)

 この物語は平清盛の娘婿高倉天皇の、生来備えていた優しい有徳の性質にまつわる逸話に基づいている。
 高倉天皇は治承五年正月十四日崩御された。御年二十一歳の若さであった。仁安三年八歳で即位。清盛の娘徳子(建礼門院)との間に安徳天皇をもうけ、まさに平家全盛を象徴する人物。しかし治承三年舅清盛が父後白河院と対立し、あろうことか院を幽閉。平家への不平不満は高まり、治承四年高倉天皇の兄以仁王が平家打倒を唱えて源頼政と挙兵し、これに呼応するように信濃で木曾義仲、伊豆で源頼朝が源氏の白旗を掲げ、強力な僧兵を擁する奈良の東大寺・興福寺も平家に抵抗し、平重衡により焼かれた。そんな末法そのものともいうべき世相の中(注)、高倉天皇は崩御した。彼の死から程なくして清盛が他界。翌々年木曾義仲が入京して平家は都落ち。文治元年平家は壇の浦の海底に沈んだのは高倉天皇の没後、僅か四年のことである。
 さてこの鐔の物語は、平安時代後期承安年間、高倉天皇が十歳頃の出来事。高倉天皇は御所の北側に設けた築山の紅葉を殊の外愛し、毎日飽かずに眺めていた。ある寒い夜、大風が吹き荒れ、紅葉は無惨にも散ってしまったのである。
 翌朝、庭を掃き清める主殿寮の仕丁(下級職員)が起きて来た。「庭一面、紅葉が散らかっているぞ。ご主人様が起きて来る前にお庭をきれいにしておかないとお叱りを受けるに違いない!」と、落ち葉を残らずきれいに掃き出してしまった。仕丁は落ち葉を集めて火を付けて酒を温めて飲み、足の先まで冷え切った体を労った。
さて高倉天皇にお仕えする蔵人は、庭に出てみて腰を抜かした。お出ましになる前に紅葉の様子を見ておこうと来たところ、葉はあらかた散ってしまい、しかもどうしたことか、庭に落ちた葉も残されていない。
「ああ、私の紅葉がない!」(高倉天皇)
「高倉天皇寵愛の紅葉を掃き捨てたのは誰だ!」(平清盛)
  高倉天皇の舅はあの平清盛なのである。蔵人は自分も含めた関係者全員が厳罰され、最悪の場合、流罪もあり得ると心底震え上がった。
 そこへ高倉天皇がお出ましになられた。いつになく早いお目覚めは無論、紅葉を案じてのこと。「紅葉が見えないが、如何いたした」蔵人は恐縮しながら「実は・・・」と話しを切り出した。
  事情を聞いた高倉天皇はなぜか拍子抜けする程に上機嫌であった。「白楽天の詩に『林間に酒を煖めて紅葉を焼く』というのがあるけれど、今回のことはその詩心に発したものにだろう。風流だ。それにしても仕丁たちがよく知っていたものだなあ。一体誰が教えたのだろうか」と感心しきりであったという。
  未だ少年の高倉天皇が事情を本当に理解していたのかどうかはわからない。が、人徳の高さで誰からも慕われた高倉天皇のこの逸話は、平家全盛時代を偲ばせる懐かしい出来事として『平家物語』の中で語られている。

 注:当時の社会では王法と仏法とは車の両輪と考えられており、後白河院を蔑ろにし、南都の二大寺院に火を放った平家の行為は平安の都人にとっては破滅的で畏怖するべきものであった。

 


鐔 無銘
赤銅魚子地高彫色絵


端正な作ゆきの鐔。鮮やかな素銅で彩られた紅葉の枝と神妙な顔つきで庭を掃き清める仕丁の対比が面白い。
裏面には菊の御紋の酒器が描かれている。

#ptpage top




目貫 無銘
赤銅地容彫色絵

酒器を囲み楽しそうな雰囲気である。

#ptpage top





縁頭 無銘
赤銅魚子地高彫色絵

縁に主題の仕丁が描かれ、頭には御所とはためく紅葉が描かれている。

#ptpage top


戻る




FineswordGinza Choshuya Top