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俊成忠度(しゅんぜいただのり)

 寿永二年七月木曾義仲の入京により都落ちした平氏一門。日の出の勢いを誇る義仲。清盛の弟で一人当千の武士と恐れられた薩摩守忠度にもどうすることもできず、止む無く一門と共に都を離れることとなった。
華々しい最期を遂げる事は武人の誉れと覚悟した忠度。が、今一つどうしても捨てがたい思いがあった。それは和歌。弓馬の道のみならず、歌の道にも全身全霊を込めて打ち込んできた忠度にとって、勅撰集への自作の歌の採用は最後の夢なのであった。「勅撰集を編むべし」との命が下ったのはこの年二月。都を去る途中、断ち難い思いを胸にわずかな手勢を引き連れて、忠度は選者藤原俊成の邸を訪れた。
意を決して藤原俊成邸の門を叩く忠度。邸内では「平家の落人が戻って参った!」と恐れおののき、ぴたりと門戸を閉じて息を詰めている。
忠度は馬から降り、「忠度でございます。俊成卿に申すべきことあって参りました。せめて門の近くまでいらしてくださいませんか」と告げた。
俊成は忠度の来訪を予期していたものであろうか、門を開き、対面に及んだ。
忠度は俊成に歌への思いを語った。
「私はあなたの教えを守って歌の道に精進して参りました。近年の騒乱の最中にても歌を忘れたことはありません。一門の運命は今や尽きてしまいました。私も一族と共に西海の泡と消える運命でございます。ただ、せめて一首なりとも勅撰集に私の歌を載せていただければ、身の誉れに存じます。何卒御願申し上げます」
と懐から巻物を取り出し、俊成に手渡したのだった。
俊成は身の危険もかえりみずわざわざ取って返してきた忠度の、和歌への情熱に強く胸を打たれた。熱い涙が頬を伝って流れ落ちた。
勅撰集は源平合戦の後に編まれた。『千載集』である。忠度の忘れ形見の巻物には秀逸な歌がいくつもあった。が、そこは勅勘を蒙った身。迷いに迷った末、俊成は「故郷の花」という題の歌を選び、「詠み人知らず」として載せた。

さざなみや志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな
(天智天皇の志賀の都はいまやすっかり荒れてしまった。しかし長等山の山桜は昔のままに美しく咲いている)


注:忠度は元暦元年一月、一ノ谷の合戦で源氏の武士岡邊忠純に打たれた。忠度はその際、名乗らなかったが、箙に「行き暮れて木のしたかげを宿とせば、花やこよひのあるじならまし 忠度」と認められた文が、物言わぬ忠度に変って名乗りを上げたのであった。

 






無銘(後藤即乗) 俊成図
『後藤家小柄選集』所載品(八代即乗)


悲壮な決意をもって都落ちする忠度の姿にフォーカスを当てている。

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小柄 無銘(京金工)

都落ちは七月であり、満開の桜は相応しくない。が、後に勅撰集に採録された忠度の和歌が桜に因んだ作であったため、この場面に描き込まれたものかも知れない。

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鐔 銘 光義作 平忠度最期図


松の木の下、組み伏せた源氏の武士岡邊忠純の首を今まさに掻こうとしている平家の将、薩摩守忠度。
そこに岡邊の子息が駆け寄っている。時は元暦元年一月、一ノ谷の合戦での一齣。

作者は近江国彦根の鐔工、藻柄子宗典の門人の光義。

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コラム 平安末期の勅撰集

  この画題の重要なキーワードとなっているのが、忠度の持ってきた和歌、そして俊成が撰に当っている勅撰和歌集である。歌人にとって勅撰和歌集に入選するというのは最高の栄誉であったという。
天皇や上皇の命によって編集された歌集を「勅撰集」という。日本最古の勅撰和歌集は平安初期延喜五年(905)に成立した古今和歌集で、以来室町時代中期の新続古今和歌集(1439成立)まで二十一の勅撰和歌集が編まれる。
中でも平安期に編まれた古今和歌集から新古今和歌集までを「八代集」と呼び、俊成や忠度の生きた所謂院政期と呼ばれる平安時代末期にはそのうちの四つ(『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』『千載和歌集』)が編まれている。遣唐使を廃止したことで生まれた独自の国風文化が花開いた平安時代。その終末の約100年に亘る院政期に勅撰集が実に四集も編まれたのは、まさに国風文化の棹尾を飾るのに相応しいとも言えるだろう。


歌集
勅命者
奉勅
完成
主な編者
同時代の出来事
古今和歌集 醍醐天皇 905年説あり
913
 ~14頃
紀貫之ら 菅原道真、大宰府へ左遷(901年)
遣唐使を廃止したことで国風文化興る
『竹取物語』(900年頃)
後撰和歌集 村上天皇 951年 957~ 959年 清原元輔
(清少納言の父)ら
国風文化の隆盛
『伊勢物語』『蜻蛉日記』(藤原道綱母)成立。
寝殿造が流行。
『土佐日記』(935年頃)
拾遺和歌集 花山天皇
1005~1007年
花山院の親撰と言われる

藤原道長が権力を握る。
中宮定子が皇后に、彰子が中宮になる(1000年)
『枕草紙』(清少納言 996年頃)
『源氏物語』(紫式部 1000年頃)
『和泉式部日記』『紫式部日記』等日記文学の隆盛

後拾遺和歌集 白河天皇
1087年
藤原通俊 白河天皇が譲位し院政を敷く
初めて宮中に北面の武士を置く(1095年)
武士階級の台頭の芽生え
藤原清衡奥州に中尊寺金色堂建立(1105年)
中央の文化が地方へ伝播
『大鏡』成立。→歴史物語の誕生
『今昔物語集』(説話集 1100年頃)
文化の大衆化
金葉和歌集 白河院
1126年
源俊頼 鳥羽上皇の院政(1126年)
平清盛誕生(1118年)
法然(浄土宗の開祖)誕生(1133年)
詞花和歌集 崇徳院
1151年頃
藤原顕輔 鴨長明誕生(1155年)
保元の乱(1156年) 崇徳上皇敗れる。
平治の乱(1159年) 源義朝殺される。頼朝伊豆へ配流。
千載和歌集 後白河院
1188年
藤原俊成 『梁塵秘抄』(今様集 後白河院 1179年)
以仁王の令旨(1180年)
同年、頼朝が伊豆で、義仲が木曾でそれぞれ挙兵
平清盛死去(1181年)
壇ノ浦合戦(1185年)平家滅亡
源義経奥州で死去(1189年)
源頼朝 鎌倉に開幕(1185年)
新古今和歌集 後鳥羽院
1205年
藤原定家ら 源頼朝、征夷大将軍に任命される(1192年)

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