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以仁王(もちひとおう)

 以仁王は治承四年四月、源三位頼政の協力を得て平家打倒の機を掲げて挙兵した、後白河上皇の第二皇子である。しかし策謀は早くに清盛の耳に達してしまい、以仁王はやむなく洛中の邸宅を脱出し、翌朝の早朝、洛東の三井寺にたどり着いたのである。三井寺は以仁王を恭しく迎え、寺内の法輪院を仮の御所とし、ここに以仁王は入った。
以仁王は後白河上皇と加賀大納言藤原季成の娘との間に生まれた。三条高倉に住まいしたので、高倉の宮ともいう。学問、笛、書など諸道に優れ、血筋にもいうところはなかったが、そこは平家全盛の世。即位することなく日を送り、治承四年にはすでに三十路となっていた。
この不遇の宮を励ましたのが、鵺退治で名高く、優れた歌人としても知られた源頼政であった。「宮様、王政および仏法の敵平清盛とその一門を滅ぼすべく、今こそ諸国に雌伏する源氏に号令をかけるべきです」と勧めた。
そこで以仁王の名で平家打倒の命令書が書かれた。以仁王の令旨である。これが信濃にいた木曾義仲や頼朝の元にもたらされ、源氏の白旗が諸国で掲げられることとなったのである。
しかし以仁王の謀叛は、熊野別当湛増により平家に伝えられてしまう。
清盛は激怒し、「直ちに宮を捕縛し、土佐に流すのだ」と命じた。
すぐに兵が差し向けられた。
以仁王はその頃、自邸で月を眺めていた。そこへ源頼政の使者が来て、策謀が露見したことを急ぎ伝えた。
動転する以仁王に、警護の武士源信連は静かに言った。
「宮様、どうということはございません。平家の女房装束を身に付けてお出ましになればよろしゅうございます」
以仁王は髪を束ねている髻を切り、女性の衣を身につけて市女笠を被った。宮仕えの女房が外出する様子で邸宅を脱出したのである。高倉小路を北へ、そして近衛大路にぶつかったところで東へ向かい、加茂川を渡って三井寺を目指した。
以仁王の挙兵は、実は大海人皇子の挙兵に見立てられている。天智天皇の弟で、壬申の乱で甥大友皇子にに勝ち、即位した天武天皇である。『吾妻鏡』に出ている治承四年四月九日付の令旨には「天武天皇の旧儀に尋ね」とある。『平家物語』にも「昔清見原の天皇(天武)のいまだ東宮の御時、賊徒におそはれさせ給ひて、吉野山へいらせ給ひけるにこそ、をとめのすがたをばからせ給ひけるなれ。いま此君(以仁王)の御ありさまもそれにたがわせ給はず」とある。天武天皇は吉野へ逃れる際に、乙女の姿を借りて逃れたとある。このように以仁王を天武天皇に擬えている辺りに、一世一代の挙兵であったこと、必勝への願い、そして何より清盛一門によって乱された政道を建て直す石を強く感じさせられる。
しかし以仁王と頼政には武運がなかった。頼政一類と三井寺が誇る強力な僧兵を主力に、延暦寺、興福寺の僧兵を加えた軍勢で一気に六波羅の平家邸宅を襲って滅ぼそうという目論見であったが、挙兵したことが思いの外早く露見したこと、延暦寺と興福寺の援軍が間に合わなかったことが致命傷となった。
以仁王は三十騎ほどの軍勢に守られて奈良の手前、山城国相良郡の光明山の付近まで来たところで、平家の武士飛騨守景家五百騎に追いつかれてしまう。まるで雨のような矢が飛び交う中、一本の矢によって以仁王のわき腹は射抜かれ、落馬したところで首を落された。治承四年五月二十六日のことである。
そもそも以仁王は望んで挙兵したのであろうか。書、和歌など宮廷人としての素養こそあれ、武士のように子供の頃より武芸の鍛錬を積んだわけではなかった以仁王にとって戦場を馬で移動するなど、楽なことではなかったろう。いや、むしろ苦痛ですらあったに違いない。実際、宇治から奈良に行く途上、宮は六度落馬したという。これは慣れない戦の旅路で満足に休息もできなかったためである。
しかし平家打倒の兵を挙げるにあたり、その旗印として以仁王の存在は欠かせなかった。源頼政が信望厚い、優れた武士であったとしても、自身で兵を挙げることはできなかった。それ故、武人ではない以仁王を押し立てることは、反平氏の勢力には不可欠であった。
かくして以仁王の夢は潰えた。しかし彼の挙兵と悲劇的最期は平家打倒の狼煙となった。殊に源頼朝が挙兵し、東国に政権を樹立するに当たり、その根拠としたのは、ほかならぬ以仁王の令旨であったことは注目されよう。奢る平家の世を突き崩したのは、武士たちの力ではなく、以仁王の強い意志であったのかも知れない。

 


小柄 無銘
赤銅魚子地高彫色絵


市女笠を被り女房装束に身をやつしているのが以仁王。
傍らに付き添っているのは鵺胎児でも有名な源頼政。

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