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敦盛最期(あつもりのさいご)

  寿永二年七月、木曽義仲の軍勢に追われて、一旦、都落ちした平家は、一時は大宰府まで落ち延び、やがて勢力を回復し、讃岐国屋島、長門国彦島に拠点を構え、四国・瀬戸内海に勢力を保ち、徐々に都へ近づきつつあった。範頼、義経に率いられた源氏軍は、元暦元年一月都から西へ進撃し、源平は摂津国一の谷で激突したのである
  一の谷は前方は海、後方は山で攻めるに難攻不落の地。源氏は西国街道を海沿いに進み、真っ向から攻撃せんとする土肥実平らの軍勢と、山側から攻める義経らの軍勢の二手に別れた。義経は平家が背にした崖を馬で駆け下りるという奇襲を仕掛け、平家は総崩れとなった。世にいう鵯越の坂落としである。
  さて、この鐔の主人公熊谷次郎直実は子小次郎直家とともに義経の旗下に属していた。が、夜陰にまぎれて抜け脱した。単独行動をとるためである。したがって直実は逆落としには加わってはいない。彼はなぜ大将の指図に従わなかったのか。それは一番乗りを果たす為である。一番乗りは武士の誉れであり、熊谷の最大の関心事であり、また単独行動をとった動機である。
  確かに義経の奇襲攻撃は、平家の意表を突く大胆不敵の行動で、成功すれば源氏の勝利に貢献することは間違いなかった。しかし、一斉に坂を下ったのでは、誰が一番乗りを果たしたか、わからず全く面白味がない。敵陣一番乗りを果たし、さらに平家の武将の首を上げんとしている熊谷直実としては、単独行動をとることは当然であった。
  熊谷直実は勇猛果敢で知られ、頼朝から一人当千の強者として、数々の恩賞に預かっている。しかし、直実の従者は僅かに子直家、旗持ちの郎党一人。大規模な武士団の族長のような武士であれば、自身が奮戦する必要はなく、郎党が活躍すればいい。が、直実のような小規模の武士は、自身が奮戦しなくてはならなかった。しかも当時、直実は親類の久下直光と領地争いをしており、それを有利にするためにも、この一戦は重要であった。
  この合戦でも直実は好敵手を求めて挑んだが、敵は誰も応戦しない。はやる気持ちをなだめながら海沿いを進むと、海上に逃れた平家の武将の姿が見えた。武将は金覆輪の鞍の馬に乗って金鍬形の兜を被り、小金造の太刀に帯びた立派な姿格好。これぞ良き敵なりと熊谷はこの武将を招き寄せると、何と武将は馬を返して来た。好機到来とばかりに組み付いて引き落とし、首を掻かんと兜に手を掛けたところで、直実ははっと息を飲んだ。武将は十七歳を出たばかりの少年で、我が子小次郎直家と同じ年恰好なのであった。しかも少年は組み伏せられてなお毅然とした態度で「早く首を取れ」という。直実には戦意は失せてしまい、何とかこの少年を助けようと思った。が、振り向けばその背後に、すでに土肥実平と梶原平三景時ら味方の軍勢が迫っていた。もはやどうすることもできず、直実は泣きながら少年の首に刃をかけた。
  さて、戦後、首実検が行なわれ、少年の首も検分された。少年は錦の袋に入った笛を身につけていた。この笛こそ、鳥羽上皇から平忠盛が賜り、子の修理大夫経盛へ、さらに孫敦盛が受け継いでいたものであった。ここで初めて少年が平敦盛と判明する。「源氏の軍勢数万騎の中で、陣中に笛を持って来た武士は一人もいない。平家の公達の、何と風流なこと」と感心する一方、敦盛の悲劇的な最期に思わず涙したのであった。

 








鐔 藻柄子入道宗典製 熊谷敦盛図(一の谷合戦)図


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鐔 無銘(藻柄子宗典派) 熊谷敦盛図(一の谷合戦)

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コラム
後世に生き続ける敦盛の悲劇
~~江戸の民衆を熱狂させた二次創作のはしり 『一谷嫩軍記』~~

※二次創作;原典になる創作物の登場人物を利用して、二次的に創作した独自の物語等をさす。
元々漫画の同人誌の用語として使われ始めた。

一の谷で十七の若い命を散らせた平家の公達平敦盛。
この悲話は時を超えて人々の心を揺さぶり続け、後世謡曲の『敦盛』等様々な作品へと昇華された。
この鐔の題に採られた『一谷嫩軍記』(いちのたにふたばぐんき)も、平敦盛と熊谷直実の物語に取材し後の世の江戸人が脚色したもの。
熊谷は敦盛を打ち取るのだが、直実の機転で敦盛と直実の実子小次郎が入れ替わっていたというもの。院の御落胤たる敦盛の助命を目論む義経から高札を託された直実は
「桜(敦盛)を一枝(一子)に替えても守るべし」との義経の真意を察し、また敦盛の母藤の局の大恩に応えるべく、苦渋の選択をする・・・。
かくて『平家物語』屈指の悲話は一層悲劇的な物語となり、一人二役と早変わり、熊谷陣屋の場面でのどんでん返しという歌舞伎らしい要素が加味され、江戸の観客たちの袖を涙で濡らした。




 小振りに引き締まった鉄地の鐔面に平家一の谷の悲劇が印象深く描かれた優品。向かって左は武蔵坊弁慶。頬骨高く日焼けした荒法師そのままの屈強な面構えで高札に筆を下ろそうとしている。固唾を呑むようにして見守るのが源義経。足下に配された笹の葉は源氏の紋所の一つ笹竜胆紋を連想させて義経の居所なるを示し、太刀の鞘金具、鎧兜の部分、軍配と筆を持つ手と描写は繊細緻密で実体的。背後には見事な桜樹。
義経は弁慶に次のように書かせた。

「掟 此花江南之所無也。一枝於折盗之輩者 任天永紅葉之例
伐一枝者可剪一指 寿永三年二月日 武蔵坊執筆」
(この桜樹は中国江南にすらない。一枝折り盗まば鳥羽天皇の紅葉の 先例に因みその一指を剪る。 寿永三年二月日 武蔵坊弁慶執筆)

この鐔にも大向を狙う風情があって臨場感に満ち、「高麗屋!」「播磨屋!」の掛け声が聞こえて来そう。仕上げた鐔工の技に、ただただ唸るばかりである。


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