金粉銘 國時 本阿(光遜花押)
(大業物)

Katana
Kinpun mei: KUNITOKI, Hon'a (Koson Kao)
(O Wazamono)

肥後国 南北朝時代初期 建武頃

刃長 二尺二寸三分七厘
反り 八分二厘
元幅 九分三厘半
先幅 六分七厘
棟重ね 二分
鎬重ね 二分三厘
彫刻 棒樋掻流し・添樋

金着二重ハバキ 白鞘入

昭和二十七年愛知県登録

特別保存刀剣
2,700,000 円

(Item number: 1759)
Higo province
A.D.1334-1336
(Kenmu era, early Nanboku-cho period)

Hacho (Edge length) : 67.78 cm
Sori (Curvature) : Approx. 2.48 cm
Moto-haba (Width at Ha-machi) : Approx. 2.83 cm
Saki-haba (Width at Kissaki) : Approx. 2.03 cm
Mune-Kasane (Thickness) : Approx. 0.61 cm
Shinogi-Kasane (Thickness) : Approx. 0.70 cm
Horimono (Carving) :
OmoteUra "Bo-hi" kaki-toshi, "Soe-hi"

Gold-foiled double habaki
Shirasaya

Tokubetsu-Hozon
2,700,000 JPY

 文永、弘安と二度にわたる蒙古襲来で、鎌倉時代の肥後の最有力武士菊池武房は竹崎季長と共に大いに奮戦した(注①)が、御家人ではなかった為、幕府からの恩賞は少なかったという。「北条氏独裁の時代はいずれ終わる」と予感したものであろうか、菊池氏は乱世を乗り切るための雄刀を打たすべく、京都より来國行の外孫延壽太郎國村とその一門を招聘した。やがて後醍醐天皇が決起し、建武の新政を開始したものの、足利尊氏が反旗を翻したため天皇が夢見た理想政治は潰えてしまう。尊氏は光明帝を擁して京都に政権を樹立し、後醍醐天皇は奈良吉野に内裏を置いたため、全国で一族血脈を二分しての南北朝の争乱に突入したのであった。
さて正平三年、鎮西熊本では、時の当主菊池武光が後醍醐天皇の皇子で征西将軍の懐良親王を迎え、南朝方としての立場を鮮明にした。その当時の延壽一門の棟梁が國時である。遺作には二尺六寸の生ぶ茎在銘の太刀(掛川神社蔵 重要文化財)や重要美術品の太刀、米国屈指の愛刀家コンプトン博士旧蔵の國時の太刀(特重)に代表される、精良な板目鍛えの地鉄に直刃が冴えた優美な太刀や短刀があり、本国山城の来國俊や来國光、國次に勝るとも劣らぬ高い技量の持ち主であったことがわかるのである(注②)。
 元来二尺六寸に及ぶ太刀とみられるこの刀は、大磨上無銘により本阿彌光遜師(注③)が國時と鑑定し、茎に金粉銘を施した作。輪反り高く中鋒に造り込まれ、國時得意の棒樋と細樋で凛と引き締まった美しい姿。地鉄は小板目に杢、流れごころの肌を交えて詰み、地沸が微塵に付き、刃寄り澄んで平地全体に常よりも鮮やかに力強く起ち現れた沸映りが地底に太く細く躍動する地景に感応して揺らぎ、変化に富んだ景色が展開している。直刃調の刃文は僅かに小互の目を交えて小模様に変化し、微細な沸の粒子が密集して刃縁がきっぱりと冴え、金線と砂流しが盛んに掛かり、沸付いて明るい刃中に小足が盛んに射す。帽子は表裏共に形のよい端正な小丸で、差裏の掃き掛けて大きな弧を描いて返る辺りに延壽の特色が窺える。地刃の出来、とりわけ沸映りは「白ける」と表現される延壽のそれとは異なって力強く鮮明で、また地刃の働きも豊富。本国山城の来物に見紛う見事な仕上がりとなっている、延壽國時極めの傑作刀である。(商品番号1759)

注①…竹崎季長の奮戦と恩賞交渉は『蒙古襲来絵詞』に描かれている。尚、菊池武房も同絵詞に登場する。
注②…昭和・大正の研師で鑑定家。研ぎの人間国宝永山光幹師の師匠。
注③…田野邉道宏先生『日本刀 五ヵ伝の旅 山城伝編』に詳しい。