脇差 銘 源英龍

天保二年辛卯十月

精錬鋼鉄為此剣
是余所肇試乃銘曰流雲



 

伊豆国 天保二
三十一歳作

刃長 一尺一寸八分八厘
反り 一分五厘
元幅 一寸四厘
重ね 二分三厘

 

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脇差 銘 源英龍 天保二年十月精錬鋼鉄為此剣是余 

 伊豆韮山代官江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもん ひでたつ)は、洋学と兵学を研究し、黒船来航時には江戸湾防備の要として御台場の築造を主導した英傑。幼少期より武術錬磨に余念なく、文政元年十八歳の時に江戸の剣客岡田十内吉利の撃剣館道場に入門している。山浦真雄が剣術家として作刀に関心を抱き、鍛刀道へと進んだように、江川も作刀を研究すべく、文政十年三月十一日(二十七歳)に大慶直胤に入門している。本所の江川屋敷(台東区亀沢一番地)から下谷御徒町の直胤宅(台東区上野五丁目十一番十一)まで足繫く通っており(江川文庫蔵『滞府中日記』)、親子程も離れた二人の密なる交流は、安政二年正月十六日江川が亡くなるまで、実に二十八年に及んだのであった。
 さて、天保二年九月十日、門人の北司正次、二王直邦、さらに研師と鞘師まで伴って韮山を訪問した直胤の旅の本来の目的は、三島明神、伊豆権現、箱根権現への奉納刀の鍛造にあったが、七十五日に及ぶ滞在中、英龍に鍛刀秘術の伝授がなされていた。江川文庫蔵『英龍刀鍛造記』には天保二年十月二十九日大慶先生の教えで「精錬剛銕為是劍是余之所肇試鍛乃銘曰照膽」(良鉄を鍛えて初作を打ち照膽の号を付けた)とある。
 表題の平造脇差は、『英龍刀鍛造記』に記されている作とほぼ同じ銘(注)が刻された、江川英龍初作の一口。身幅広く重ね厚く、控え目の反りにふくらが付いた堂々たる姿。地鉄は板目に杢と柾を交えて肌起ち、地沸厚く付き、鎺元に黒い地景風の鉄が現れる。ごく浅い湾れに互の目を交えた刃文は沸付いて匂口やや沈み、沸で明るい刃中に金線と砂流しが掛かる。帽子は乱れ込んで小丸に返る。舟底形の茎の仕立ては丁寧で、化粧鑢の付く筋違鑢が掛けられている。力強く刻された源英龍の銘字は、龍の最終画の撥ねをはじめ直胤の銘形に酷似している。師の力を借りたものであろうが、初めて自作を打ち上げた江川英龍の感動は如何ばかりであったか、想像に難くない。
 代官所領内の統治と視察、反射炉研究、洋式兵法研究、軍用パン製作、塾の運営等々、五十五年に及ぶ江川英龍の生涯は多忙かつ多彩であった。江川の祖国愛と施政に共感していたのであろう、天保八年の大塩平八郎の乱に遭遇した直胤は、状況報告の筆を走らせ、天保十二年に長崎の高島秋帆が江戸徳丸原で洋式砲術を実演した際には、英龍の代理で高島に謁見し、砲術と鋳鉄について尋ね、英龍の事業の有用性を確信し「(英龍の事業は)日本之御為ㇳ奉存候」と書状を送っている。  万能の巨人江川英龍。本作は若き日の英龍と直胤の豊穣なる瞬間を伝える歴史的な一口である。
関連する論文が「発見!伊豆韮山代官・江川太郎左衛門英龍初作の平造脇差」と題して『刀剣美術』令和八年五月号に掲載されている。(商品番号1744)

注…裏銘末尾が「照膽」ではなく「流雲」となってはいるが、初作の一つであろう。

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