
天保頃 武蔵国
鉄地木瓜形刻印毛彫打返耳
縦 87.4mm 横 80.5mm 切羽台厚 3.3mm
都(京都)・ナニハ(難波)・宮(宮津)・イセ(伊勢)・イツ(伊豆)・シナノ(信濃)・エンシウ(遠州)・サカミ(相模)・桜(佐倉)等の地名が、刻印によって放射状に散らし配された鉄鐔。精良な鉄質はまさに刀鍛冶が鍛えたもの。作者はかの有名な大慶直胤であり、直胤に間々みられる鍛刀地名を刻印で記した茎と何ら変わらぬ作でもあるが、この鐔においては刻印を一種の装飾として捉えているところに特殊性が感じられるのである。
水心子正秀の高弟として名高く、天性の技量を備えてしかも感性が鋭く、師の唱えた古名刀復古の理論の実践に成功した大慶直胤は、一方で旅好きの士でもあった。ここでいう旅行とは、現代の観光とは自ずと異なる、同時代の社会を知るために、地域のオピニオンリーダー的存在との交流を図ったもので、また作刀技術の研究と精進という側面をも備えていた。
例えば、天保二年には伊豆韮山の江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもん ひでたつ)を訪ねている。江川太郎左衛門は、黒船来航に備えて江戸湾に台場を築き、そこに設置する鉄製大炮を目指しての反射炉の建造に携わり、自邸に開設した塾で高島秋帆流の西洋式砲術を教授し、また軍用食パンを製作した先進意識の高い人物。実はこの江川太郎左衛門は、直胤の作刀の弟子であった。この旅では、直胤は韮山を拠点にして三島大社や伊豆山権現への奉納刀を精鍛したばかりか、江川太郎左衛門に鍛刀技術を直接伝授しているのである。
韮山を辞した直胤は、その足で遠州浜松を経て伊勢神宮に参拝している。また天保七年には真田公の招きで信州松代城下に滞在し、その後、大坂へ入ったが、そこで元大坂町奉行所与力大塩平八郎の起こした乱に遭遇し、一部始終を伊豆の江川に手紙で報告している。乱後、良鉄の産地備中千屋を訪問し、そこでも作刀している。またある時は奈良奉行の川路聖謨(かわじ としあきら)宅を訪問し、居合抜刀の稽古を日課として刀を収集していた川路と刀談議に花を咲かせている。
このように直胤は各地の知人、恩人、弟子を訪問してその地で刀造りに励んだのである。その際、茎に駐鎚地銘の刻印を打ち施したことは、多くの遺作によって知ることができる。
表題の鐔は、信家を見るような耳際の厚い打返耳仕立ての木瓜形の造り込み。鍛え強い地鉄が色合い黒くねっとりとした光沢を呈し、全面に残された鎚の痕跡と、所々の鉄骨が古風な景色を成している。図柄は、刀の茎に施された駐鎚地の刻印と全く同じ刻印を打ち込んだもので、「武蔵」の横にさりげなく「大慶」の刻印もあり、師水心子正秀譲りの遊び心を滲ませている。裏は直胤自作の和歌で、向かって右から左周りに「玉結のきれ行まてハ海山に みをころしても道やまなはん」と読み取ることができる。
同郷の水心子正秀との縁だけを頼りに出羽山形から江戸へ出た大慶直胤。古名刀精鍛の一念を道しるべに鍛刀技術を錬磨し、養子次郎太郎直勝、北司正次などの優れた後進を養成した刀鍛冶直胤。その生涯こそが、まさに壮大な旅であった。
注…『刀装小道具講座』に同図の鐔が二点ある。
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