上杉家伝来
備後国 南北朝時代末期~応永頃
刃長:二尺三寸三厘
反り:七分五厘
元幅:九分五厘
先幅:五分六厘
棟重ね:二分
鎬重ね:二分三厘
金着二重ハバキ 白鞘付
本間薫山博士「古三原正家・・・斉憲公遺愛ノ一」
黒蝋色塗鞘打刀拵入
拵全長:三尺二寸二分
柄長:七寸
昭和26年山形県登録
特別保存刀剣鑑定書
(三原正信 時代南北朝末期乃至応永)
Handed down from the Uesugi family
Bingo province
Late Nancoku-cho period - Oei era
(Late 14th century)
Ha-cho (Edge length) 69.8cm
Sori (Curvature) approx. 2.27cm
Moto-haba (width at Ha-machi) Approx. 2.88cm
Saki-haba (width at Kissaki) Approx. 1.7cm
Kasane (thickness) Approx. 0.7cm
Gold foil double Habaki
Calligraphy on the wooden case (Shirasaya)
written by Dr. Honma Kunzan
"Ko-Mihara Masaie, Narinori ko iai no 1"
Kuro ro-iro nuri saya, uchitana koshirae
Whole length : Approx. 97.5cm
Hilt length : Approx. 21.3cm
Tokubetsu-Hozon certificate by NBTHK
(Mihara Masanobu,
Late Nanboku-cho - Oei period)
本間薫山博士(注①)が備後の刀工古三原正家と極め、伝来を「斉憲(なりのり)公遺愛」と鞘書された大磨上無銘の刀。斉憲は、儒者細井平洲に学んだ「愛民の思想」を以て新田開発や農村復興、殖産興業に取り組んで成功した上杉鷹山(うえすぎ ようざん)から三代後の上杉家の当主。天保十年四月に藩主となった斉憲は、鷹山の精神を継承したのみならず、嘉永元年に越後で異国船警備の軍事演習を行った際には洋式砲術を採用している。文久三年には将軍家茂の守護で上京し、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中核として薩長軍と対決したが、恭順後は奥羽和平に尽力した(注②)。
表題の刀は元来二尺六寸程の太刀で、鎬が高く輪反り深く中鋒の、鎌倉末期の太刀を想わせる優美な姿。板目鍛えの地鉄は刃寄りに柾を配して錬れ、刃の際の暗帯部が澄み、平地に映りが立つ古風な肌合い。直刃の刃文は微細な沸で刃縁が明るく、段状の湯走り、金筋が掛かって処々ほつれ、喰違い、二重刃となり、帽子は微かに掃き掛けて、焼詰めごころに浅く返る。大和色のある一方、隣国備中青江や備前雲生の作風にも通じ、本間博士の「古三原正家」の極め(注③)も得心される出来栄え。鷹山の志を胸に幕末維新期を生きた上杉斉憲公の忘れ形見の一刀。現在は南北朝末から応永頃の三原正信として鑑定書が付されている。
理想の君主の出現を暗示する桐鳳凰図縁頭(注④)が付された綺麗な拵が付されている。
注①…文学博士。古刀史研究の権威。日本美術刀剣保存協会会長も歴任。
注②…斉憲の子茂憲(もちのり)は沖縄県令として県政に当たり、旧体制
の身分秩序と搾取に苦しむ県民を救うために尽力した。
注③…鞘書に「古三原正家 斉憲公遺愛ノ一」とある。本間博士の念頭に
は鎌倉末期徳治頃の古三原正家(親正家)があったのであろう。
『日本刀銘鑑』で、島津家献上の御物の正家について「鎌倉末期
の作であり、銘がなければ一応雲生・雲次に入札されそうな太刀」
と注記され、時代の上がる正家の古調な作風に言及している。
注④…頭に合わせて縁を名手安達幽斎真早が製作。