拵 江戸後期文久 百六十一年前
拵全長 三尺二寸四分(98.2cm)刀 武蔵国 文久 百六十一年前
刃長 二尺三寸二分九厘(70.6cm)
万延元年三月二十八日、パリで横浜閉港交渉会議に臨んだ幕府遣欧使節団の主要人物は、日本伝統の武士の出立ちであった。正使池田長発は狩衣に糸巻太刀、副使河津伊豆守祐邦(かわづ いずのかみ すけくに)は甲冑に、表題の毛抜太刀を佩用。これには会議主催の皇帝ナポレオン三世も大喜びであったという。その折にパリで撮影された、表題の毛抜太刀を帯びた甲冑姿の祐邦の写真が遺されている(参考写真)。
祐邦は百俵取という微禄の幕臣であったが、高い実務能力が目付堀利熙の目に留まり、堀が嘉永七年に箱館奉行となると、その右腕として蝦夷地経営に奔走した。帰府後は新徴組支配役として江戸の治安改善に貢献し、文久三年九月に外国奉行を拝命し、遣欧使節副使として渡欧したのである。
祐邦佩用の毛抜太刀は、金梨子地塗鞘に家紋が佩表に四つ、佩裏に三つ金蒔絵され、総金具は銀地。毛抜形の透かしが施された柄には鉄線唐草文、鐔と帯取金具には蜻蛉の目玉に似た魔除けのモレウ文が彫られ、金具、蒔絵共に保存状態が優れ、神々しく輝いている。姿に力の籠った刀は清麿の高弟源正雄の作で、「摸伊勢神寶秀郷朝臣太刀(いせしんぽうのひでさとあそんのたちをもし)」と添銘され、平将門の乱平定の俵藤太秀郷への思慕の念を窺わせる。小板目に杢を交えて詰んだ地鉄は明るく、互の目に丁子、尖りごころの刃を交えて華麗に変化した刃文は純白の沸で刃縁が明るく、刃中も昂然と輝いている。研数少なく生ぶ刃が残され、茎は錆浅く保存状態は完璧である。
正雄は安政五年頃から箱館に滞在し、古武井(尻岸内町)の砂鉄で鍛刀しているが、実は箱館奉行堀利熙の要請によるもの。正雄は箱館奉行所勤務の祐邦と当然ながら昵懇であったろう。この刀と拵は、同年十一月二十八日の祐邦の出発に合わせ、昼夜突貫で製作されたに違いない。能吏河津祐邦の、パリでの一世一代の晴れ姿を偲ばせる唯一無二の歴史的逸品となっている。
詳細は当社ホームページ及び『歴史街道』11月号記事(PHP研究所発行)をご覧ください。
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