明治天皇を国家元首に戴いた帝政日本は、薩摩藩出身の西郷隆盛、大久保利通、長州藩の木戸孝允、伊藤博文、井上馨、土佐藩の板垣退助、肥前佐賀藩の大隈重信、江藤新平など倒幕の立役者を中心に政権運営がなされ、また、欧米に使節や留学生を派遣して軍制、財政、教育、社会制度など多岐にわたる改革が実施されたことにより、大きく生まれ変わった。やがて選挙権を求める動きが大きくなり、議会開設、さらには大日本帝国憲法が制定され、近代国家として整備されていった。
それに合わせて政権を担う廷臣たちの髪型や服装も、髷を切り、和装から洋装となった。殊に天皇の即位、婚儀などの晴れの場での正装は、羅紗生地の燕尾服型上着を用い、ズボン、靴を履いた、所謂大礼服である。佩刀は、和装であれば、飾太刀や衛府太刀であったが、洋装には相応しくなく、洋剣拵、即ちサーベル形の剣拵を佩用することとなったのである。
だが、剣拵の中身については、従来通り、刀や太刀を入れることに強い要望があった。そのため政府は、明治六年八月三日に太政官令を発し、儀式等での政府高官や高級官僚の佩刀を三尺前後の剣拵、中身は従来の刀も良しとした。これは当時の高官や官僚の多くが旧大名や維新の功臣、即ち武士で、刀への郷愁があったためであり、そしてまた治安が未だ不安定で、護身用の刀が不可欠であることも理由であった(注①)。実際、明治七年には岩倉具視、明治十一年には大久保利通が刺客の手にかかっている。
表題の剣拵は本身の刀を収めた作で、政府の法令に準じつつ所持者の趣味嗜好が反映された、特別の一口。金具は春島信政(はるしまのぶまさ)作の一作金具で、笹竜胆紋(注②)に唐草図が高彫金色絵とされ、昂然と輝いて殊に美しい。特に目を惹くのは柄の鳳凰。肉高く彫り出されてしかも細部まで精巧。嘴はしっかりと結ばれて眼光鋭く、今にも翼を広げて羽ばたかんばかりの生気に満ち、また風格があって見事という他ない。
附帯する刀身は大和物、就中、千手院の作として家に伝来した一振(注②)。身幅と重ねは控えめで反りが浅く、小鋒の古色を帯びた姿。地鉄は小板目に柾を交え、地沸が厚く付き、古風に肌起つ。浅い湾れの刃文は、明るい沸が厚く深く付いて刃縁茫洋とし、帽子は小丸返り。茎は大磨上無銘で、剣拵の柄へのおさまりが考慮され、刃方へ強く寄せられている。大礼服を着し、剣を腰に帯びて式典に臨む雄姿が鮮やかに想起される。
特別の依頼で金具を製作した春島信政は、幕末から明治の金工で、住まいは江戸下谷練塀町(現千代田区神田練塀町三番地)であった。後藤光晃に師事した名手宮田信清に学び、その技術を継承し、洗練味のある精密な高彫の作品を遺している(注③)。その鑚使いは繊細緻密。因みに弊社旧蔵の朱塗海老鞘拵は縁頭、口金、小柄、笄、栗形、鐺、裏瓦が春島信政の作であった。銀磨地に片切彫と毛彫、赤銅と金の色絵が駆使され、唐草に紫陽花、桔梗、藤、朝顔、躑躅、木蓮、鉄線花、牡丹、雛罌粟(ひなげし)、菊花、牡丹、桜花と、四季折々の草花が、まるで着物の図柄のように描かれて洒落ており、また見事であった。それ程の技術がありながら作品が極めて少ない理由は、春島信政が維新後の廃刀令により刀と刀装具への需要が無くなり、止む無く鑚を措いたためである。
この拵は特別の需に応えての精作で、持ち前の見事な鑚技が遺憾なく発揮され、江戸金工の超絶技巧を、そして寡作の春島信政の優工ぶりを今に伝えて頗る貴重である。
注①…斎田章氏「趣味の蒐集品」。
http://www.a-saida.jp/touken/bunkan.htmlに詳しい。注②…刀身は千手院と伝えるが、再刃の可能性があり評価されない。
注②…刀身は千手院と伝えるが、再刃の可能性があり評価されない。
銀座名刀ギャラリー館蔵品鑑賞ガイドは、小社が運営するギャラリーの収蔵品の中から毎月一点を選んでご紹介するコーナーです。
ここに掲出の作品は、ご希望により銀座情報ご愛読者の皆様方には直接手にとってご覧いただけます。ご希望の方はお気軽に鑑賞をお申し込み下さいませ。