みちのくの尾駮の駒も野飼には
あれこそまされなつくものかは(後撰和歌集)
東路のおくの牧なる荒馬を
なつくるものは春の若草(拾玉集)
綱たへてはなれはてにし陸奥の
尾駮の駒を昨日見しかな(相模 拾遺和歌集)
平安時代あるいは鎌倉時代の和歌にも放牧の様子が採られているように、奥羽は名馬の産地として広く認識されていた。また、多くの歌枕が奥羽に求められていることからも、訪れることが容易ではない異国の地に対する憧れが、これらの歌から感じとることができる。
都から遠く離れた奥羽の地に栄えた牧場経営の始まりは、古く大陸から渡来した民族との交易によるものとも考えられている。
天平年間、東山道各国で産した軍馬をその国外に持ち出すことを禁じる勅詔が発せられたことがあった。性の良い軍馬が好まれていただけでなく農耕馬としても需要が高まったためであるが、禁止令をすり抜けるように良馬が駄馬と称されて売買され、遂にはその駄馬さえも売買が禁止されるに至った。即ち勅詔を超えて需要があったのである。馬は鉄製の剣や鏃と共に最先端の武具であり、誰もが大量に所有することによって武力と権力の裏付けとしたのである。
逢ふ坂の関の清水に影見えて
今ぞ引くらむ望月の駒(紀貫之)
古く宮中では、八月の中旬に各国で産した優れた馬を迎え入れる駒迎の行事が行われていた。逢坂の関で御馬寮司が若駒を受け取り、宮中に迎え入れるもので、その様子は絵画にも採られている。かつて奥羽の馬もその対象であったが、奥羽の馬は次第に高価になったものであろうか、鎌倉時代には信濃国望月産の駒のみが宮中に運ばれるようになったという。ここでも奥羽の馬が高く評価され、高い値をつけていたことが窺いとれよう。
牧とは柵を廻らした放牧場を指すが、奥羽では専ら野飼されていたようだ。野飼とは山野に放して飼うこと。自然の中を自由に走らせることで気性の強い馬を育てたのであろう。源義経が京の源義仲を攻めた宇治川の合戦で、先陣争いを演じた梶原景季の磨墨(するすみ)も佐々木高綱の生食(いけづき)も、そのような環境で育てられた荒馬であった。奥羽の馬の評価は殊に鎌倉時代以降、武家によって高められていったのである。
土屋安親は、このような牧の様子や飼われていた馬の姿を、遠い故郷の風景として思い浮かべたのであろう、本作以外にも馬を題材に採った鐔が幾つか遺されている。野原に立つ巨木の周りに牛と共に佇む放馬を構成美豊かに彫り描いた作は余りにも有名。また鐔の切羽台の周りに八駿馬を布置した、古代中国の伝承を彫り描いた鐔も、同様に自然の営みに取材しながらも優れた構成感覚を示した作である。この鐔では、個性的な図柄構成に挑戦したものではなく、むしろ自然な景観を捉えていると思われ、柳の古木の下に佇む馬を彫り描き、静かに過ぎてゆく時の流れを感じさせる作品としている。
質の良い地鉄は色合い黒々としてねっとりとした肌合いを呈す。耳際がわずかに薄く仕立てられた竪丸形の造り込みで、鎚の痕跡を残して早春の朧なる空気感を表現している。柳の古木を裏から表にかけて布置し、その背景に、夕暮れ時の光が遠く沈んでゆくように、裏面に銀布目象嵌で描かれている山陰の月もまた、朧なる空気のあり様を表現している。この鎚目を意識した地相が、柳とその下に佇む馬の姿を印象深く浮かび上がらせているもので、馬の身体に加えられた穏やかな鏨による彫り様も、暮れてゆく西の空を背後にした陰影の描写を想わせる心憎い演出と言えようか。小川の流れもごくごく浅い鋤き込みで、静けさを感じさせている。
安親は寛文十年に出羽国庄内藩士土屋忠左衛門の子として生まれた、武家の出であった。家老松平内膳の次席用人などを務めたが、如何なる理由があってか金工細工に目覚め、同国鶴岡の佐藤珍久に師事して技量優れ、さらなる技術と感性を高めるべく江戸出府を決意し、妻と子を残して一人旅江戸へと立った。
江戸では奈良辰政の門に学び、師を凌駕する作品を生むに至り、縁を得て守山藩松平大学頭頼貞に抱えられる。この頃は特殊な造り込みからなる印象深い作品を製作しているが、次第に己が心に映る風景を真正面から捉えた作へと領域を広げ、松平家を辞して独歩の道を選んだ。壮年時代と呼ばれるこの頃には、蟻通宮図鐔など古典に取材した作だけでなく、野猪図鐔、芦雁図鐔、鯉魚図鐔などを、またその後の大成時代には楼閣山水図鐔、干網千鳥図鐔、木賊刈図鐔など自然界の生き物や古典に取材しながらも人間味のある素朴な目線を大事にした、優しさと独特の構成美を突き詰めた作品を生み出している(注)。
注…壮年時代及び大成時代の分類は、宮崎富次郎著『安親』による。猪図鐔、芦雁図鐔、蟻通宮図鐔、木賊刈図鐔はいずれも銀座長州屋所蔵。