大磨上無銘 寶壽
Katana
no sign(O-suriage) HOJU

陸奥国 南北朝後期明徳 約六百三十年前

刃長 二尺六寸三分六厘
反り 八分
元幅 九分九厘
先幅 六分二厘
棟重ね 一分四厘
鎬重ね 二分二厘
金着二重ハバキ 白鞘入

令和五年東京都登録

保存刀剣鑑定書(後代宝寿)

Mutsu province
Meitoku era(A.D.1390-1394, late Nanboku-cho period)
About 630 years ago

Hacho(Edge length) 79.9cm
Sori(Curvature)approx. 2.42cm
Moto-haba(Width at ha-machi) approx. 3cm
Saki-haba(Width at Kissaki) approx. 1.88cm
Kasane (Thickness) approx. 0.67cm

Gold foil double Habaki / Shirasaya

Hozon by NBTHK (Late Hoju)

 都人にとって陸奥国は、蝦夷なる異民族が支配する遠い異郷であった。そして金と名馬を産し良港と漁場に恵まれた魅力の地でもあった。それ故、陸奥を支配するべく、征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂、酒呑童子退治の逸話や『今昔物語集』の「芋粥」の話で知られる藤原利仁将軍、さらには八幡太郎源義家などが派遣されたのであった。寶壽(ほうじゅ)は陸奥国平泉の刀工である。渦巻くような板目肌と匂口茫洋たる直刃調の刃文は、他国物には紛れぬこの地域の特徴。尚、寶壽の父文壽は源氏重代の髭切の太刀の作者という伝承もあって(『日本刀銘鑑』)武士の草創史との密な関連が想起され、古来数寄者の賞翫が篤い。
 この刀は無銘ながら寶壽と極められた一振。地鉄は鎬地と平地とを問わず全面が大模様の板目肌となり、肌目の間に細かな銀砂のような沸が入り込んで肌模様が一際顕わとなり、鉄色が黒みを帯びるなど特色が顕著。刃文は直刃に小互の目を交えて強く沸付き、地鉄の鍛えが刃境に現れて複雑に出入りし、帽子は焼詰めとなる。この刀は保存刀剣鑑定書で「後代宝寿」の作とされている(注)が、地刃の様子は古色蒼然とし、鎌倉、南北朝期の寶壽と別ける所は見出せない。奥州に勇名を馳せた八幡太郎義家などの名将の活躍譚を想い起こさせる、浪漫に満ちた一刀である。

注…藤代版『日本刀工辞典 古刀偏』に後代寶壽として明徳四年八月日の 寶壽在銘の太刀が載せられているが、本作はそれよりも古調である。