脇差
銘 備州長舩勝光
明應十年八月日(大業物)

Wakizashi
Bishu Osafune KATSUMITSU
Meio 10 nen 8 gatsujitsu(O Wazamono)

備前国 明応 
右京亮勝光六十七歳作 五百二十二年前

刃長 一尺九寸一分半
反り 五分六厘
元幅 九分八厘
先幅 七分
棟重ね 二分三厘
鎬重ね 二分四厘
彫刻 表裏 棒樋丸止・連樋
金着二重ハバキ 白鞘入

平成十八年東京都登録

特別保存刀剣鑑定書
百八十万円(消費税込)

Bizen province
Meio 10(A.D.1502, late Muromachi period)
522 years ago / Work at his 67 years old

Ha-cho (Edge length) 58cm
Sori (Curvature) approx. 1.7cm
Moto-haba (width at Ha-machi) approx. 3cm
Saki-haba (width at Kissaki) approx. 2.12cm
Kasane (thickness) approx. 0.73cm
Engraving: "Bo-hi" maru-dome, along "Tsure-hi"
on the both sides
Gold foil double Habaki
Wooden case (Shirasaya)

Tokubetsu-Hozon certificate by NBTHK
Price 1,800,000 JPY

 備前長舩における勝光同銘は、室町時代初期の応永より末期の天正までみられるが、最も作品が多く、また人口に膾炙しているのが右京亮勝光と次郎左衛門尉勝光の親子であろう。殊に、文明頃から明応にかけて活躍した右京亮勝光は、弟の左京進宗光の助力もあって、備前、播磨、美作を領した赤松政則の被官として歴史の舞台に登場し、足利義政、義尚に与する政則の下命を受け、文明十五年四十九歳の時に吉井川を挟んで山名勢と戦い(注①)、その後、児島、備中草壁(注②)、京、近江(注③)を転戦しながらも長寿を保ち、鍛冶の業をその子次郎左衛門尉勝光に託している。
 この右京亮の脇差は、政則没後、長舩に帰還しての作で、重ねが厚く刀姿の均整が抜群の片手打ち。小板目鍛えに小杢目肌を配した地鉄は麗しく詰み、所々肌目が起ち、地斑状の澄肌が黒映りとなって現れ、平地一面が明るく冴える。刃文は匂口が屹然と締まった直刃に小足が幽かに入り、焼刃の線が清く、刃中は余分な働きを一切排して水晶が如き純白。歴戦の中で、用と美の真髄を咀嚼した勝光のみが成し得る別天の境域でもあろう。

注①…この時は多くの郎党を従えて吉井川の上瀬を守ったが敗れ、渡河した山名勢は勝光、宗光らを追って長舩に入り込み、鍛冶の舘を焼き払った『備前文明乱記』。

注②…徳川家康はこの草壁打(重文)の脇差を差料としていた。

注③…『蔭涼軒日録』。