平戸松浦家伝来
撫子蒔絵厨子棚

梶葉紋三星紋 垣に撫子図黒漆塗金銀朱粉蒔絵
江戸中期
松浦家伝来
高さ 二尺三寸三分(70.5cm)
横幅 二尺五寸五分
奥行 一尺二寸二分

 

撫子蒔絵厨子棚 平戸松浦家伝来


 肥前北松浦郡と壱岐国(現長崎県)を領した平戸藩松浦(まつら)家旧蔵と伝える、江戸中期製作の撫子蒔絵厨子棚(なでしこまきえうずしだな)。棚板に松浦氏の平戸梶の家紋が蒔絵され、金具にも同紋と松浦星(三ツ星)紋が刻され、伝来は確かである(注)。時を重ねてしっとりとした色合いを呈する黒漆塗に、金粉蒔絵で描かれた瑞々しく華麗な生垣に撫子の図は、古典的な物語を内に秘めた風景の文様表現。これは江戸初期の本阿弥光悦や俵屋宗達などが温め、元禄期の尾形光琳が完成させた「琳派」の趣向に他ならない。撫子蒔絵は金銀朱粉による平坦な手法だけでなく、描(かき)割(わり)と呼ばれる精巧でしかも細やかな技法が要所に施され、さらに金の微粉を背景に散らし蒔くことにより香り立つ空気感を演出している。棚の下から二段目の観音開きの扉の内側には阿吽の様相をなす狛犬が金蒔絵されており、今にも動き出さんばかりである。
 平戸藩松浦氏は嵯峨天皇の流れを汲む源氏で、平安中期に大陸の女真族が北九州に襲来した時、都から防備のために来た肥前介源知に始まる。末裔は代々一字名を名乗り、松浦地方を開墾して所領を経営し、船で朝鮮や中国と交易して富を蓄えた。強力な水軍を擁し、松浦地方に割拠していた諸部族を従えて戦国大名に成長。豊臣秀吉が天正十五年九州を攻めると、松浦隆信は島津氏攻撃に参陣し、また刀狩や朝鮮出兵にも協力している。慶長五年関ケ原の戦では東軍に味方し、所領六万三千二百石と家を守った。
 平戸を領した松浦家は江戸初期、交易で栄えた。その繁栄を偲ばせるのが奈良の大和文華館蔵の国宝『婦女遊楽図屏風』。松浦家旧蔵で『松浦屏風』とも呼ばれるこの屏風は、桃山風の衣装で着飾り、煙管や鏡、三味線を手に寛ぐ女性の姿が金地に鮮やかに描かれ、優雅で豊穣な文化の香りに満ちている。
 だが程なく松浦家は危機を迎えた。寛永十八年オランダ商館が平戸から長崎に移転したのである。貿易の利を失った松浦家であったが、経済感覚に優れた松浦氏は検地を実施し、小規模農民の育成と商業、漁業等の振興を図り、俸禄制度の改革を実施したことにより財政が改善、実質石高十万石を達成している。寛政頃の九代清(号静山。『甲子夜話』の著者)も財政改革に辣腕を揮い、疲弊した家臣と領民の救済資金を用意し、領内の経済再建に成功している。天保年間には十一代曜が幕府への普請出費や大飢饉で悪化した藩財政を再建。十二代詮も倹約と殖産で財政を充実させ、日本近海に出没する異国船に備えて洋式砲術を導入している。代々の当主は開明的で重臣の意見に耳を傾けて改革を推し進め、家と家臣と領民を守ったのである。
 この棚は調度として奥書院に置かれたもの。松浦家の賢侯たちは慌ただしい日常と諸問題をしばし忘れ、豊かな時を過ごしたのであろう。今でも、遠い幕政期の大名家の文化と生活、松浦氏の優れた美意識を伝える逸品であり、我々の心を楽しませてくれるのである。

注…棚板には梶の葉紋のみが残され、三ツ星紋が消されている。これは 売立の際に出所が明らかになるのを嫌った故。素銅地に金色絵の金具にも黒漆が施され、三ツ星の家紋が隠されていたとみられる。

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