銘 固山宗次
(号 山桜)

天保八年八月日
同年十月廿七日於千住太々土壇拂

武蔵国 天保 三十五歳作
百八十五年前

刃長 二尺三寸六分 (71.5cm)
反り 七分五厘
元幅 一寸五厘強
先幅 七分五厘
棟重ね 二分四厘
鎬重ね 二分六厘強

水戸徳川家旧蔵

 

刀 銘 固山宗次(号 山桜) 天保八年八月日 同年十月廿七日於千住太々土壇拂

 

刀 銘 固山宗次(号 山桜) 天保八年八月日 同年十月廿七日於千住太々土壇拂
 白鞘

刀 銘 固山宗次(号 山桜) 天保八年八月日 同年十月廿七日於千住太々土壇拂 差表切先刀 銘 固山宗次(号 山桜) 天保八年八月日 同年十月廿七日於千住太々土壇拂 差表中央刀 銘 固山宗次(号 山桜) 天保八年八月日 同年十月廿七日於千住太々土壇拂差表ハバキ上

刀 銘 固山宗次(号 山桜) 天保八年八月日 同年十月廿七日於千住太々土壇拂 差裏切先刀 銘 固山宗次(号 山桜) 天保八年八月日 同年十月廿七日於千住太々土壇拂
差裏中央刀 銘 固山宗次(号 山桜) 天保八年八月日 同年十月廿七日於千住太々土壇拂 差裏ハバキ上

刀 銘 固山宗次(号 山桜) 天保八年八月日 同年十月廿七日於千住太々土壇拂 ハバキ

 固山宗次(こやまむねつぐ)は享和三年陸奥国白河の生まれ。父宗一、兄宗平と共に白河藩士の為に鎚を振るい、文政六年に松平侯が伊勢桑名へ転じると、文政十三年八月までに桑名に移住している。だが鍛刀技術錬磨の希求は止むことなく、天保元年頃には兄宗平と共に江戸に出、出羽米沢藩工で、濤瀾乱刃と丁子乱刃の名手として進境著しい長運斎綱俊に師事している。五歳程の年齢差の二人は意気投合し、これによって宗次は丁子出来の美刀への手掛かりを摑んだと思われる。しかも、宗次の刀には試刀家の伊賀乗重や山田浅右衛門の試銘の入った作が多い。宗次は自刀の刃味について彼らの意見を入れて精進し、最上(さいじょう)大業物(おおわざもの)に匹敵する切れ味に到達する。荒沸の一切ない美しい丁子乱刃と抜群の刃味は、高位の武士の間で大評判となった。
 この刀は心技体が最も充実した天保八年の作。太刀のように姿が美しく、刃肉が充分に付き、先幅もたっぷりとして中鋒がやや延びた、実寸以上の大きさを感じさせる造り込み。しかも研数少なく生ぶ刃が残された健全体。小板目鍛えの地鉄は肌目が緻密に起ち、地沸が微塵に付き潤って冴え、透き通るような美しさ。焼高い丁子に房状の刃、小丁子を交えた刃文は備前一文字伝の重花丁子で、微細な沸の粒子によって匂口明るく、長い匂足を遮って金線と砂流しが僅かに掛かり、匂が立ち込めた刃中は霞立つように澄む。帽子は鮮やかに乱れ込んで掃き掛け尖りごころに返る。早朝の澄んだ青空の如き地鉄に冴えた刃文は咲き匂う桜花を想わせ、「山桜(注)」の号が附されている。錆浅い茎の四字銘は一段と丁寧で鑚(たがね)枕(まくら)が立ち、截断銘が優れた切れ味を証している。厳選された材料を鍛錬し、精妙な焼入れが施された固山宗次会心の一刀である。

注…本居宣長の「敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花」は余りにも有名。水戸徳川家では「山桜」と号したと伝えている。

固山宗次押形


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