伊藤博文所持
摩利支天厨子

黒漆塗厨子
高さ 三尺二分(9.6cm)
幅 二尺一分強
奥行 一寸三分
桐箱入 仕覆付

 

伊藤博文所持 摩利支天厨子

伊藤博文所持 摩利支天厨子伊藤博文所持 摩利支天厨子
伊藤博文所持 摩利支天厨子

伊藤博文所持 摩利支天厨子 黒漆塗厨子 伊藤博文所持 摩利支天厨子

伊藤博文所持 摩利支天厨子 桐箱 仕覆

 明治の元勲伊藤博文が山口県の湯田温泉に遊んだ時、世話になった宿の主人に形見として譲ったと伝えられる漆黒塗の厨子。収められているのは、自在の神通力を持ち、護身、武運長久、宿願成就の神として古来武士に信仰された摩利支天像。昭和六十二年頃、宿の主人の子孫から「長州有縁の人に所持して欲しい」と託された遺品である。
 伊藤博文は天保十二年九月二日、周防国熊毛郡束荷村(山口県光市)に農民林十蔵の子利助として生まれた。父十蔵は思うところあって萩へ出、足軽伊藤直右衛門に奉公した。八十歳ながら跡継ぎがなかった直右衛門は篤実な十蔵を気に入り、その利発な一人息子利助を養子とした。藩士となった伊藤は吉田松陰に学び、木戸孝允の部下として安政五年十月江戸へ出た。当時、伊藤は尊王攘夷の志士で、高杉晋作と品川の英公使館を焼打。攘夷実行の為に深く敵を知るべく、井上馨などと長州藩留学生(長州ファイブ)として渡英した。
 だが伊藤は大英帝国の文明に圧倒され、攘夷の不可能を悟る。そして攘夷決行に燃える長州藩を止めないと、藩ひいては国が滅亡すると危惧し急ぎ帰国。英語を駆使しての懸命の調停も空しく藩は欧米艦隊から報復攻撃され、また禁門の変の責を問われて幕府の追討を受けることとなった。
ところが高杉晋作などが藩の実権を掌握し、薩摩と同盟したことにより歴史が動き始める。長州は倒幕へと舵を切って躍進。伊藤は抜群の実務と交渉能力を発揮し、武器調達と情報収集で倒幕に大きく貢献したのである。
 伊藤の本領発揮は維新後のこと。語学に長けた伊藤は欧米先進国に学び、岩倉具視や大久保利通、木戸孝允の後の指導者として日本の近代化に尽力。生来楽天的で人を信じる性質の伊藤は「有能かつ剛胆」と見込んだ人材を、藩閥の垣根を超えて登用した。また、自らドイツに留学して憲法と議会制度を研究し、明治憲法発布と国会開設を達成した。そして条約改正、中国や露西亜等の大国と折衝し、隣の韓国の統治にも情熱を注ぎ、日本国と東アジアの平和と繁栄の為に懸命に働いた。
 伊藤が常人なら投げ出したくなるような国家の難題の数々に挑み続けたのは、木戸をして「剛凌強直(強く激しく正直)」と言わしめた強い性格によるもの。だがそれだけではなかった。伊藤家の家庭教師であった津田梅子(津田塾大学創始者)に拠れば、伊藤は「わけのわからない力(生命の?)といったものを信じていた。彼の多くの言動にしばしば、信仰と名づけたくなるようなそうした途方もない神がかり的なものがあった」という。一歩間違えば狂気とも言われかねない熱情と目に見えない力への信仰が伊藤を支えていたのである。
 伊藤が懐中にしていたこの厨子は、身分ある知人(或いは皇族か)からの贈物であろうか。黒漆の色合い深く、天井部分には環のついた菊紋金具が付され、菊花文図蝶番で止められた小さな扉を開くと、金色の火焔輪宝を背に、唐花文が彫られた台座に鎮座する摩利支天像が現れる。厨子の内部は鮮やかに彩色され、金粉が厚く塗られて神々しく輝く。伊藤が余人に知られる事なく秘蔵していたためであろう、厨子内の金、摩利支天像の彩色は製作時そのままで、白く端正で美しい顔の摩利支天は全身に静かな覇気を湛えている。
 明治四十二年、伊藤博文は露西亜のココーフツォフ蔵相とアジアの平和について議論するべく渡海。十月二十四日午前九時半、中国東北部のハルビン駅に降りた所で凶弾に倒れた。享年六十九歳。近代日本政治史に偉大な足跡を遺した伊藤博文の栄光と苦難の日々を知る摩利支天像である。

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