川路聖謨所持
楠木正行留守模様図鐔
明珍宗周左衛門尉 聖謨書

武蔵国 安政頃 約165年前
鉄地木瓜形甲鋤彫毛彫猪目透打返耳
縦78.6㍉ 横75㍉ 切羽台厚さ4㍉

川路聖謨(かわじとしあきら)座像とその肉筆

 表に吉野の山の稜線と武士(もののふ)の潔さを表す桜花を、裏に「帰らじとかねておもへば梓ゆみなき数にいる名をぞとどむる」の南朝の忠臣楠木正行の辞世の句が彫られた鐔。切羽台に「左衛門尉聖謨書」とあり江戸末期の幕臣川路左衛門尉聖謨(かわじさえもんのじょうとしあきら)の筆とわかる。
川路聖謨(かわじとしあきら)は、享和元年四月二十五日に豊後日田代官所員内藤歳由の子として生まれる。幕臣を志す父に付き、一家をあげて文化初年に出府。その後聖謨は、父の友で旗本の川路光房の養子となり、文化十四年に勘定所の筆算吟味試験に合格。篤実有能な働きは天保の改革の老中水野忠邦の目に留まって勘定吟味役に抜擢され、以後佐渡奉行、奈良奉行、大坂町奉行等を歴任。誠実快活な人柄は多くの人に愛され、韮山代官江川英龍、水戸斉昭と家臣藤田東湖、間宮林蔵、渡辺崋山、佐久間象山などと親交。聖謨はまた、柳生新陰流を修め、刀工大慶直胤と交流し、刀や甲冑を愛した武人でもあった。
川路の生涯で最大の出来事の一つは、嘉永六年の露西亜のプチャーチンとの交渉。川路は会食し、次郎太郎直勝の刀を贈り歓待したが通商は拒否し、一切譲歩しなかった。それでも露西亜側は知的で機知に富んだ川路の人柄に深く魅了されたという。
鐔の作者明珍宗周(みょうちんむねちか)は津山藩の甲冑師。文化十四年十一月十五日に尾張藩の槍師井上喜兵衛の末子として生まれ、十歳の時に明珍宗保に入門してその養子となる。甲冑の名手として津山藩内外に知られていた宗周に、勘定奉行だった川路は安政二年九月五日にオランダ国王へ軍艦のお礼として寄贈する鎧二領を発注している。作鐔も得意とした宗周に川路は惚れ込み、忠君の思いが詠み込まれた和歌を表現した鐔(注)の製作を依頼したのである。
本作もその一つ。刻されているのは、正平三年の四条畷の戦を前に死を決意した楠木(くすのき)正行(まさつら)の和歌で、『聖謨詠草』や軸物(参考写真)に見る川路の肉筆そのままの書体。忠義の士正行に我が身を重ね合わせたのであろう、薩長の江戸城総攻撃を前に「我に元来遺書なし。遺書と申せば、忠の一字なり」と遺して自決した川路聖謨の、その誇りと美学を伝えるに充分な鐔である。

注…「埋もるる身をば思はず君を思ふ心ぞ深き佐野の白雪」「塵つちと
成て報いむやまよりもたかきめぐみをうけしこの身ぞ」と聖謨の和
歌が彫られた明珍宗周作の鐔二枚がある(石田謙司『私家本「具足
師・明珍家関係」に見る津山松平藩抱具足師三代について』)。

●銀座名刀ギャラリー館蔵品鑑賞ガイドは、小社が運営するギャラリーの収蔵品の中から毎月一点を選んでご紹介するコーナーです。ここに掲出の作品は、ご希望により銀座情報ご愛読者の皆様方には直接手にとってご覧いただけます。ご希望の方はお気軽に鑑賞をお申し込み下さいませ。

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