西郷隆盛遺愛龍図鐔二題
波龍図鐔 銘 長陽萩住人治生友信造
波龍図鐔 銘 長州萩之住河治友直作

友信

長門国萩 江戸後期
鉄地丸形高彫金布目象嵌
縦 97.4mm 横 94.6mm 切羽台厚さ 4.1mm
箱書「南洲愛蔵之龍鍔 西郷吉之助[朱印 西郷吉之助]」

友直

長門国萩 江戸後期
鉄地丸形高彫象嵌点象嵌
縦 71mm 横 70.5mm 切羽台厚さ 5.2mm
箱書「南洲愛蔵之龍鍔 西郷吉之助[朱印 吉之助][南山]」

一ノ瀬切短刀 銘 和泉守兼定

維新三傑の一人西郷隆盛遺愛の龍図鐔。西郷家を継いだ吉之助(注①)翁が秘蔵されていたもの。作者は江戸後期の長州鐔工治生友信と河治友直である。
 少年期の喧嘩で右腕を痛め、剣を諦めた西郷隆盛は無類の刀好きであった。大正五年に本阿弥光遜師が作成した刀剣台帳に鉄扇仕込の村正の短刀他、六十三振の刀剣の記載がある。鐔の記はないが、表題の鐔はその欠を補う貴重な作である。
 今尚、日本人に愛されている西郷隆盛。数多の業績の中で特に有名なのは、慶応四年三月十三日の勝海舟との江戸城無血開城の交渉である。凡人ならば鳥羽伏見の戦を勝利に導いた将として物々しく乗り込む所である。だが西郷は駿府から品川へ入り、騒然たる江戸の町を下男熊吉のみを連れて移動し、田町の薩摩藩蔵屋敷に入った。西郷の身を案じ、人斬り半次郎こと桐野利秋らの部下と官軍の兵が追い付いて屋敷に控えたため、一時は殺気陰々とするも西郷は平然としていたという(注②)。勝は「(西郷は)大局を達観して、しかも果断に富」み、「大胆識と大誠意」の人であるとし、西郷の、常人では計り知れない器の大きさを讃えている(注③)。
 表題の長州鐔は、薩長同盟の際に木戸孝允など長州藩の面々から友誼の証として贈られた作であろうか。堅牢な鉄地に彫り描かれた逆巻く大波の中を泳ぐ龍は、鱗を逆立て、飛翔せんと天空を睨むその姿に生気が漲っている。
 明治六年、征韓論で敗れて下野した後、薩摩で猟犬と兎を追い、私学校で若者の教育に情熱を燃やした西郷は、明治十年九月二十四日、西南戦争で敗れ、悲劇の最期を遂げた。郷里での晩年、折りに触れてこの鐔を掌にしたであろう。その脳裏に浮かんだのは、薩長同盟交渉で命懸けの議論を交わした大久保利通、小松帯刀、木戸孝允、坂本龍馬など友のこと、北越の戦いで散った弟吉次郎の姿、更には自身の人生を決定付けた亡き主君島津斉彬の尊顔であったろうか。

注①…吉之助は隆盛の嫡子寅太郎(陸軍歩兵大佐)の三男で、長兄隆輝の養子となる。戦後、参議院議員となり、昭和四十三年佐藤栄作内閣の法相に就任。

注②…第一次長州征伐後の和平交渉も西郷が単身赴いて締結。西郷が死を恐れないのは、島津斉彬急死後、尊攘の僧侶月照と心中するも生還した事が原因という(磯田道史『素顔の西郷隆盛』参照)。

注③…勝海舟『氷川清話』(講談社)参照。

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