一ノ瀬切短刀
銘 和泉守兼定

美濃国 室町後期 約四百八十年前

刃長 九寸四分(二八・四糎)
反り 一分五厘
元幅 八分三厘
棟重ね 二分
鎬重ね 一分八厘
彫刻 表裏 薙刀樋・添樋

高瀬羽皋鞘書「一の瀬切之定(注①)」

一ノ瀬切短刀 銘 和泉守兼定

高瀬羽皋鞘書「一の瀬切之定)」高瀬羽皋鞘書「一の瀬切之定」

 

一ノ瀬切短刀 銘 和泉守兼定一ノ瀬切短刀 銘 和泉守兼定

一ノ瀬切短刀 銘 和泉守兼定一ノ瀬切短刀 銘 和泉守兼定

慶応四年五月二十三日深夜、秋月藩の干城隊が重役臼井亘理宅を襲い暗殺。洋式軍制を推進した亘理は上京して献身的に活動したが、反対派も多く、突如命令が下り、帰藩を余儀なくされた。その夜、凶刃に斃れたのである。干城隊の犯行と判明するも、反臼井派が多数を占めていたことから、藩の幹部は彼らを無罪としたのであった。
 亘理の嫡男六郎は、山本克己が下手人で、維新後に一ノ瀬直久と改名して東京で新政府の判事となったと知り、伯父を頼って上京する。勉学修業は名目で目的は敵討。剣客山岡鉄舟の書生となり剣技を錬磨する傍ら、一ノ瀬の行方を探索。そしてついに明治十三年十二月十七日、旧秋月藩主屋敷に立ち寄った一ノ瀬を討ったのである。
 この「最後の敵討」を題材に長谷川伸、吉村昭、葉室麟など綿密な調査を旨とする作家が執筆するも、敵討実行の物証情報は皆無であった。
 表題の和泉守兼銘の短刀こそ臼井六郎が一ノ瀬を討った「一ノ瀬切兼□(いちのせぎりかねさだ)注②」で、鞘に徳川本家より山岡鉄舟が拝領し、六郎に与えた由緒を、日本刀剣保存会創設者の高瀬羽皋師(注③)が認めている。鋭利で力強い鵜ノ首造で、地鉄は板目に流れごころの肌を交えて鉄色明るく、刃文は互の目に尖りごころの刃、小湾れを交えて刃縁も明るく、刃境に湯走り、金線、砂流しが掛かり、刃中匂で澄む。帽子は乱れ込み、掃き掛けて突き上げごころに小丸に返る。檜垣鑢の茎に細鑚で和泉守兼定と刻されている(注④)。父母の敵を前に高鳴る鼓動も抑えがたく機を窺う臼井六郎の姿を彷彿とさせる歴史的一振である。

注①…「一の瀬切之定(兼)在銘長九寸四分有之 羽皋隠史誌(花押)」「此刀もと徳川公爵家重代 山岡鐵太郎拝領 臼井六郎に與ふ 六郎この刀にて父 の仇一瀬を斬る」と記されている。

注②…昭和二十六年発行の登録証に「和泉守兼定(傳一ノ瀬切)」と記されている。

注③…『刀剣と歴史』を創刊した高瀬師は少年感化事業を手掛け、不遇な少年少女を援助した。少年期の不遇に負けず本懐を遂げた六郎に注目したのであろう。

注④…伝来を重んじたのであろう、銘が不審なるも「和泉守兼定と銘がある」と注記して特別貴重刀剣認定書が発行されている。山岡鉄舟も六郎も兼銘の真偽は問題としなかったであろう。歴史的刀剣にはかかる例がままある。『刀剣と歴史』のバックナンバーに詳述された箇所があるやも知れぬが未確認である。

兼定押形



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