短刀
折返銘 高天神(兼明)


Tanto
Sig.(Ori-kaeshi mei) TAKATENJIN
(KANEAKI)


美濃国‐遠江国 天文頃 約四百七十年前

刃長 八寸二分強
反り 僅少
元幅 八分四厘
重ね 一分六厘
彫刻 表裏 腰樋掻流し

赤銅地一重ハバキ 白鞘付

朱石目地塗鞘合口短刀拵入
拵全長 一尺二寸四分
柄長 三寸強


昭和三十五年埼玉県登録

特別保存刀剣鑑定書 (兼明)

Mino-Totoumi province
Tenbun era (A.D.1532-1554, late Muromachi period)
about 470 years ago

Hacho (Edge length) 24.9㎝
Sori(Curvature) a little
Moto-haba (Width at Ha-machi) approx. 2.55㎝
Kasane (Thickenss) approx. 0.48㎝
Engraving: "Koshi-hi" kaki-nagashi on the both sides

Shakudo single Habaki / Shirasaya

Shu ishime-ji nuri saya, aikuchi koshirae
Whole length approx. 37.6cm
Hilt length approx. 9.09cm

Tokubetsu-hozon certificate by NBTHK
(Kaneaki)

 永正十年、今川氏親に遠州掛川以南の経営を託された松井宗能は、標高百三十二㍍の鶴翁山に目を付け、ここに高天神城(注①)を築いた。断崖絶壁の尾根上にあって眺望の優れた名城は「高天神を制する者は遠江を制する」と謳われ、隣国の武将の垂涎の的であった。今川氏衰亡後、永禄十一年に徳川家康の持城となると、元亀二年には田信玄が触手を伸ばすも落とせず、難攻不落の評は一層高まった。信玄の宿願は、天正二年に勝頼が二万の大軍で攻めてようやく成就したが、徳川方はその後も包囲網を設けて奪還の機を窺い、天正九年三月に、遂に攻略を果たしたのであった。高天神兼明は同城下に居住(注②)した刀工。激烈な戦いと武将の生死を目の当たりにして鍛刀した故か、遺作には戦国気質が充満し、しかも現存作は稀で、愛刀家の声望が殊に高い(注④)。
 この短刀は、磨り上げたものの「高天神」の銘字が失われるのを惜しんで折返銘とされた作で、今なお身幅重ね充分で殆ど無反り、腰樋が掻かれて刺突と截断と両方に利のある戦国武将好みの一振(注③)。板目鍛えの地鉄は黒味を帯びて肌起ち、地景太く地沸が厚く付き、関映りが立つ。直刃の刃文は、粒立った沸が密集して光を反射し、刃境に湯走り、小形の金線、砂流しが掛かり、二重刃、喰い違い、打ちのけを交え、匂で澄んだ刃中は奔放で力強く変化し、切れ味の良さを感じさせる。帽子は沸付き、掃き掛けて二重刃となり、小丸に返る。武将が一命を託した高天神の貴重な一振である。
 朱石目地塗柄鞘の、懐に収め易い突ぺい式に造り込まれた上品な合口拵が付されている。

注①…現静岡県小笠原郡大東町上土方。

注② 注②…城の南方約二㎞の、高天神兼明の鍛刀場跡と伝える場所に碑がある(福永酔剣先生『刀工遺跡めぐり三三〇選』)。

注③…梵字を刻し腰樋が掻き流された直刃出来の短刀(『駿遠豆三州刀工乃研究』参照)は近似。

注④…西南戦争で熊本城を死守した谷干城も、高天神の脇差を所持した(『駿遠豆三州刀工乃研究』)。

注⑤…先細く掌中に収まりよく武用にも意が注がれている。建徳二年三月日紀の豊後州住行政(特別重要刀剣。庄内酒井家伝来。『銀座情報』六号掲載)の外装に似ている。

短刀 折返銘 高天神(兼明)短刀 折返銘 高天神(兼明)短刀 折返銘 高天神(兼明) 白鞘

朱石目地塗鞘合口短刀拵 短刀 折返銘 高天神(兼明)

 

短刀 折返銘 高天神(兼明) 差表切先短刀 折返銘 高天神(兼明) ハバキ上

短刀 折返銘 高天神(兼明) 差裏切先短刀 折返銘 高天神(兼明) 差裏ハバキ上

丸龍図目貫 金無垢地容彫


 

 

高天神押形