短刀
銘 備前國住長舩祐定作
大永四年八月日

備前国 大永 四百九十七年前

刃長 五寸七分七厘(一七・五糎)
元幅 六分
重ね 二分

大石内蔵助由緒鞘書(注①)
昭和二十六年東京都登録

短刀 銘 備前國住長舩祐定作 大永四年八月日

大石内蔵助由緒鞘書大石内蔵助由緒鞘書

 

短刀 銘 備前國住長舩祐定作 大永四年八月日 刀身差表切先短刀 銘 備前國住長舩祐定作 大永四年八月日 刀身差表 ハバキ上

短刀 銘 備前國住長舩祐定作 大永四年八月日 切先短刀 銘 備前國住長舩祐定作 大永四年八月日 刀身差裏 ハバキ上

大永四年紀のある備前国祐定(すけさだ)の作。ごく僅かに内反りが付き、地鉄に淡く映りが立ち、刃文は直刃。戦国武将が最期の備えとした一口。この短刀を収める古色を帯びた白鞘の、墨書の内容が興味深い。驚くなかれ、この祐定の短刀は、京都山科に大石内蔵助を訪ねた朝原重榮が、大石から授かった旨が記され、しかもその事実を裏付ける確かな史料が遺されているのである。 元禄十四年三月十四日、江戸城松の廊下で勅使接待役の浅野内匠頭が、高家の吉良上野介を切り付けた。浅野は即日切腹、そして赤穂藩が改易された。喧嘩両成敗の武家の掟に反する処分には当時も批判があり、浅野家中でも籠城の意見があったが、家老大石内蔵助の説諭で赤穂城は明け渡され、大石は京都山科へ去った。江戸の堀部安兵衛、奥田孫大夫、高田郡兵衛は、書状で大石に江戸下向を催促。大石を頭目に決起して吉良を討ち、内匠頭への忠節を貫く、それが堀部らの「武士の一分」である。だが大石は動かず、浅野内匠頭の弟大学長廣を擁してのお家再興運動を進めていた。主家を盛り立てる事こそが、代々家老職を勤めて来た大石家の当主内蔵助の重んじた「武士の一分」であった(注②)。
 さて、鞘書には、元禄十五年四月浅野旧臣で播磨国加東郡家原(兵庫県加東市)の朝原重榮が、大石内蔵助を山科に訪ねて懇談し、別れに際し、大石の嫡子主悦の守り刀を賜ったとある。このことは『赤穂義士史料』に詳しく書かれており、大石が朝原に「遊興三昧は浅野家と一族から義絶されるためで、義絶されれば、自分が吉良邸に討入っても誰にも類は及ばない」との胸の内を話し、「この短刀は当家に伝来した作で、息子主悦の守り刀でしたが、息子は無事成長したので今後はあなたの子供の守り刀として大切にしてください」と朝原に渡したとある。以後、大石内蔵助の形見として朝原家と一族安達家に密かに伝えられたのが、表題の祐定の短刀である(注③)。討入の八ヶ月前。旧知の朝原に大石は、討入への秘めた想いを語り、また朝原は秘密厳守を誓った上で、大石の活動への支援を約したものであろうか。世に名高い赤穂事件と大石内蔵助の知られざる史実を伝える歴史的な一振である。

注①…大石内蔵助由緒鞘書「安達家重蔵也。文政六年癸未秋八月磨之、改柄。因禄往時。浅野家舊臣播之加東郡家原邑宰重榮五世孫安達直右衛門惟煥。明治廿年春三月再磨之。惟煥五男朝原文吾」「備前国住長舩祐定之相口。義士大石主悦之守刀也。元禄十五季夏四月内蔵助良雄氏在山科之時、予先朝原重榮訪之、臨別良雄氏賜之。因傳家百数十年。後世勿失」。

注②…お家再興はならず、大石は堀部らを指揮し、元禄十五年十二月十四日吉良邸に討ち入り、吉良の首を取った。なお、武士の一分については田原嗣郎著『赤穂四十六士論』に詳しい。

注③…鞘書には朝原重榮の五世孫安達直右衛門惟煥が文政六年癸未秋八月に研磨し、鞘を製作、さらに明治廿年春三月安達惟煥の五男朝原文吾(朝原家を再興)が再研磨とある。

祐定押形



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