昭和二十六年長野県登録
Shu tataki urushi nuri saya, yari koshirae
Whole length approx. 242.4cm
Scabbard length approx. 27.3cm
Hilt length approx. 221.2cm
Put on "Kami-ina gun bunka shiryo shashin shu 1"
信濃高遠藩士の島田家に伝来した、島田小十郎助宗の千鳥十文字槍。島田家の祖先は駿河国の刀工。助宗は戦国時代に義助、廣助と共に島田三名工と称えられる技術を持ち、今川義元に仕えた。江戸初期の豊後守助宗(六兵衛)の代に一族は信濃、越後、出羽へ活躍の場を広げた。表題の槍の作者小十郎助宗は六兵衛の子で、摂津大坂の津田助廣に学び、寛文から貞享に活躍した。小十郎助宗の子の一人が独立し、信州高遠で代を重ね(注②)、文政頃の助宗が鎚に代えて剣を取り、高遠藩進徳館の剣術師範大矢貫治に師事(注③)し、北辰一刀流を収めたとみられる。
この千鳥十文字槍は鎬筋が強く起ち、穂は先がやや張って重ねが厚く、総ての面に焼刃が設けられ、突くのみならず引いても截断可能な実戦武器で、『新刀辨疑』所載の助廣の千鳥十文字槍に酷似している。茎には太鑚の銘字が鮮明に残されている。異国船が日本近海に出没し、幕府や藩で軍備充実と武芸錬磨の必要が喚起された時期、先祖作の槍を手に危機に備えたのであろう。江戸時代の錆のまま今に伝えられている。