昭和二十六年東京都登録
柴田果(しばた か)は明治十七年十一月十日、秋田県雄勝郡羽後町西馬音内の生まれで、本名を柴田政太郎という。名物小夜左文字の短刀(国宝)を所持した愛刀家の柴田は佐藤重則、宮口一貫斎壽廣に就いて鍛刀技法を修得。古鍛法を研究し、筑州左、大和保昌、山城来、越中則重、備前与三左衛門祐定等を手本に鍛刀し、戦前戦後の刀界に大きな足跡を遺している(注①)。
この短刀は、生ぶ茎無銘の柴田果の作品。藤代義雄師門下の竹田守太郎研師が研磨をし、佐藤寒山博士が「傑出之作」と鞘書している。真の棟に造られて両区深く、無反りの凛とした姿。小板目鍛えの地鉄は深く錬れて詰み、差表は刃寄りに柾肌がうねり、地底に蠢くような地景が現れ、地沸が微塵に付いて肌起ち、刃に沿って深く澄み、平地に沸映りが立って相州の古作然としている。直刃の刃文は浅く揺れて中程で喰い違い、小沸が付いて柔らかに光を反射し、僅かに金線が掛かり、刃中は匂で澄む。帽子はふくらに沿って小丸に返る。茎は未だ錆浅く、浅い勝手下がり鑢と栗尻の茎形に、昭和十年以降の柴田果の特色が顕著に現れている(注②)。直刃の名手と謳われる相州伝の開祖新藤五國光を念頭に置いた作であろう、古作への憧憬と挑戦の跡を伝えている