平成十四年兵庫県登録
特別保存刀剣鑑定書
応仁の乱の原因の一つに、越中守護畠山氏の家督を巡る政長と義就の兄弟の確執があり、争いは畿内近国に広がった。政長の軍勢に加わった越中刀工宇多國宗が文明十五年十二月に京都にて鍛刀しており、その様子が三条西実隆卿の日記(注)に記録されているのは興味深い。播磨、備前、美作の守護赤松政則に長舩勝光、宗光が近しく仕えたように、國宗とその一門も畠山家中の武士に従い、戦火の狭間で鎚を振るったのである。
この刀は、國宗一門で室町中期の明応、文亀頃の宇多平國の作。身幅が広く両区深く、腰反りに先反りが加わって姿に張りがあり、鎬地の肉が削ぎ落されて鎬筋屹然と立ち、刃の通り抜けの良さと力強さを感じさせる戦国期の刀らしい造り込み。地鉄は板目に流れ柾を交えて肌起ち、地景が太く入り、地沸が厚く付いて鎬筋寄りに沸映りが立ち、地色が黒味を帯びて迫力ある肌合い。小互の目乱の刃文は、小丁子、片落ち風の刃、宇多らしい牙のような鋭い刃を交えて僅かに逆がかり、純白の小沸で明るい刃縁に小形の金筋が躍動し、匂で澄む刃中に足、葉が入る。帽子は浅く乱れ込み、突き上げて小丸に返り、僅かに棟を焼き、飛焼と相俟って物打付近が皆焼調となる。短い茎は片手打に適し、鑚圧強く刻された銘字に上身の出来への自信が窺える。宇多鍛冶の特色が顕著で出来が優れ、戦国武将が一命を託した刀の全貌を今に伝えている。宇多鍛冶の作は平造脇差や短刀のみ多く、健全な刀の遺例は極めて少ない。