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古水田國重の槍。大月三郎左兵衛尉國重は備後国辰房派の流れを汲む左衛門尉國重の子。備中松山に居住し、永禄十一年に毛利元就に抱えられて安芸国郡山城下に鍛冶場を構えている。その後天正二年に砦部に移り住み、水田鍛冶の基盤を成した良工である。松山城主三村家に仕えた父左衛門尉を水田鍛冶の祖とする説もあるが、実質的な初代はこの三郎左兵衛尉である(注)。
この鎗は、研ぎ減りなく鎬筋が立って重ねしっかりとし、先端が鋭いながらも張りがあり、中間の身幅を控え、樋を掻いて刺突の効果を高めた構造。刃先も鋭く、具足の隙間を突いて背中にまで抜ける切れ味を誇ったものと思われる。板目鍛えの地鉄は肌起ちごころに細かな地沸で覆われ、全面に激しく乱れ映りが立ち、腰元には太い地景が走る。刃文は小乱状に不定形に乱れ、小互の目、片落ち風の刃、尖刃、湾れ、二重刃を伴い、帽子は火炎状に尖って返り、鎬筋も区まで焼を施して万全の備えとしている。匂口の締まった焼刃は際立ち、地中の映りに煙り込むように働き、刃中には匂の砂流しが掛かり、所々小沸が付いて湯走り状に刃境が複雑さを増し、一部に鋭い金線が走る。
附されている拵は、片手での操作性の高い全長が五尺半ほどの寸法。江戸時代には室内の備えとされていたものであろう。