昭和二十六年兵庫県登録
特別保存刀剣鑑定書
尊王攘夷の志士梅田雲濱(うんぴん)が(注①)所持した若州冬廣の短刀で、茎に「赤心報國」と深く刻されている。雲濱は文化十二年六月七日若狭国小浜の生まれ。文武に秀で、江戸で朱子学を修めた雲濱は、嘉永五年に海防と藩政改革を献策したが、幕政批判の姿勢が佐幕主義の藩主酒井忠義(ただあき)の逆鱗に触れて藩を除籍となる。嘉永六年に黒船来航で揺れる江戸へ出た雲濱は、外圧に屈すれば諸国に侮られ日本に未来はないと確信(注②)して吉田松陰と意見を交換し、水戸(注③)、長門、対馬で尊王攘夷論を遊説。その説に共鳴して起ち上った士は多く、また幕政批判の舌鋒が余りに鋭く、後の安政の大獄で捕縛され、安政六年九月十四日に獄死している(注④)。
雲濱が護身用に腰間を温めたのは、郷里若狭の鍛冶冬廣。この短刀は、棟方にも焼刃が施された一撃必殺の武器両刃造で、二筋樋、細樋が掻かれて引き締まった姿。地鉄は小板目に板目、流れごころの肌を交え、小粒の地沸が付いて鉄色が明るい。刃文は浅い湾れに小互の目を交え、刃縁は小沸で明るく、刃境に湯走り、金線、砂流し掛かり、沸筋流れ、小足入り、刃中は匂で澄む。帽子は金線、砂流しを伴って掃き掛け、突き上げて浅く返る。先の細い茎には筋違鑢が掛けられ、個性的な銘形の「冬」に比べて「作」の字がやや小さく刻され、名手藤左衛門尉冬廣の銘字に近似(注⑤)。同作短刀中の優品となっている。「梅田雲濱赤心報國」との切付銘は、たとえ志半ばで倒れても不屈の志を後世に伝えんという雲濱の決意(注⑥)の顕れである。
菊紋尽の赤銅金具で装われた拵が付されている。