雁書図鐔
銘 遊洛斎赤文
行年七十六翁

 

慶応元年 百五十五年前
越後国‐武蔵国江戸‐出羽国庄内鶴岡
鉄地撫角形高彫金朧銀象嵌
縦76.7mm 横73.5mm 切羽台厚さ4.3mm


 

雁書図鐔 銘 遊洛斎赤文 行年七十六翁

 

雁書図鐔 銘 遊洛斎赤文 行年七十六翁




 『万葉集』に雁の詠み込まれた和歌が六十数首もあるように、雁はその題材として古くから愛されている鳥である。
さ夜中と夜は更けぬらし雁が音の
 聞こゆる空ゆ月渡る見ゆ 柿本人麻呂 ①
我が宿に鳴きし雁がね雲の上に
 今夜鳴くなり国へかも行く ②
いずれも、雲に隠れつつも大空を飛翔する雁の姿が思い浮かぶ歌である。もちろん詠み人の内にある思いが秘められているのだが、純粋に詠まれている要素としての雁の鳴きわたる声、また渡り鳥であることなど生き物としての生態的特徴が歌から窺いとれ、頗る絵画的であることが和歌の本質に備わっていることに改めて気付く。
最も重要なことは、雁が秋に飛来し、春に北へ帰りゆく太古からの生態。万葉人は自然の景色として捉えた和歌を多く遺しているが、一方で人は、雁に対して自然界においての生き物としての営みを超え、自らの思いを雁の行動に重ね合わせることもある。②の歌は、旅の途中で雁の鳴く声を耳にし、望郷の思いを強くしたものであろう。
天飛ぶや雁を使に得てしかも
 奈良の都に言告げ遣らむ ③
③の歌は、遣新羅使が福岡県糸島郡志摩町の辺りに至った頃に詠まれたもので、かなり具体的に奈良の都を思い浮かべる内容となっている。危険極まりない大海渡航を前に、都に住む家族へ便りを届けてくれないだろうかと、渡り鳥である雁に思いを託しているのである。
殊に異境の地とも考えられていた東国に旅する者への思いは、盗賊や事故など旅路の安全、意図せぬ病、もちろん思い人の心変わりに対する不安も、待つ者の心に渦巻いていたであろう。雁は渡り鳥であり、遠くに住む家族や夫、あるいは妻の頭上を通り過ぎてゆく。雁に思いを託すことができたらいいなあ、と誰もが感じていたに違いない。だが相手は言葉の通じぬ鳥。無数の雁が渡り行く様子を目にする度に「夫もこの雁を見たに違いない」と、雁に便りを託する願望を同じ雁を見るという行為に代え、心の中で成就させたのであろう。そのような願望は次の歌にも表わされている。
九月のその初雁の便りにも
 思ふ心は聞こえ来ぬかも 桜井王 ④
雁がねは使ひに来むと騒くらむ
 秋風寒みその川の上に 大伴家持 ⑤
春草を馬咋山ゆ越え来なる
 雁の使は宿り過ぐなり 柿本人麻呂 ⑥
それが愛する者への思いであればなおのこと。枯葉の舞い落ちる様子さえもの悲しく感じられる秋から冬へと移り行く頃、その季節をなぞるように飛来する雁は悲しみを運んでくるのであろうか。
明け暮れの朝霧隠り鳴きて行く雁は
 我が恋妹に告げこそ ⑦
常陸指し行かむ雁もが我が恋を
 記して付けて妹に知らせむ 物部道足 ⑧
時代が下って古今和歌集にも、紀友則に雁を詠んだ歌がある。「たまづさ」とは手紙のこと。⑧も⑨も直截的に雁が手紙を運ぶことを意味しているのである。
秋風にはつかりがねぞ聞こゆなる
 誰がたまづさをかけて来つらむ 紀友則 ⑨
さて掲載の鐔は、雁が遠き国より便りを運ぶ使者であるという古代中国の伝承「雁書」を下敷きにした作。即ち、前漢の将軍蘇武が北国でとらわれの身となった際、自らの安否を記した手紙を南に向かう雁の足に結んで故国の皇帝に伝えたという故事による。
作者は、寛政二年に越後国村上に生まれ、江戸の浜野家に学び、後に出羽庄内酒井家に仕えた桂野赤文。庄内の先達土屋安親に私淑したものであろう、鉄地を専らとして彫口の鋭い高彫象嵌の手法を極め、迫力のある画面を彫り表した。
この鐔も上質の鉄地を鍛え、黒々として光沢のある地面に鎚の痕跡を残して抑揚を付け、さらに石目地を施して雁の姿を隠すことのある雲に見立てたのであろう、表には舞い降りる雁の姿を、裏にはその棲み処となる芦原の様子を彫り出し、過ぎることのない金象嵌を要所に配している。雁の姿は彫り際が鋭く起って立体感に溢れ、細部まで鋭い鏨が切り込まれて羽毛の柔らか味さえ感じさせる彫口。総ての姿態が異なって躍動感と生気に満ち、その一羽が結び文を嘴にしているところが古典の意識。裏面の芦も情感に溢れている。流れる川面は赤文の得意とした力強い片切彫と鋤彫を組み合わせた彫口で、地面に打ち施された濃密な石目地は秋霧であろうか、起ち込めた霧にふうっと浮かび上がる趣向とされている。
芦原に雁は、小栗宗継筆襖絵(大徳寺養徳院蔵)や土屋安親作芦雁図鐔(三九二号掲載)等で知られるように、禅味を帯びて室町時代以降我が国の武士に好まれた図であり、また、両者からなる構成は、我が国の自然観を示している。
結び文を携えて旅をしてきた雁を主題としたこの鐔は、古典に対する深い知識を備えた赤文の傑作の一枚である。



阿弥陀鑢図鐔 無銘 平田彦三

   


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