背負陣太鼓

桃山時代 背負紐・桴(ばち)・屋根枠付
高さ 42.8cm 幅 26.3cm 奥行 34.8cm
太鼓径 20.5㎝ 桴長 32.9cm

 

背負陣太鼓



 

 数万の将兵が動員された戦国時代、『北条五代記』には「旗本の貝太鼓の聲を聞て、懸引兵略をつくすを見れば、俗にいふかゆき所へ手をあてるがごとくにて」とあり、法螺貝(ほらがい)や陣太鼓(じんだいこ)で全軍が自在に動かされた。いざ決戦ともなれば、陣太鼓が激しく打ち鳴らされて轟き、戦意は一際高揚した。信長もまた、勝機と見た刹那、「一人モ残サズ討捕ルベシ、先ヅ螺ノ音ヲ立ヨトテ、螺ヲフカセ太鼓ヲウタセテ、自身マツ先ニカケ出サセ玉ヒケレバ」と、法螺貝と太鼓を激しく鳴らすよう指示し、自ら馬を走らせたのであった(『総見記』)。
陣太鼓は、古くは祭礼用の大太鼓が用いられた。『国立歴史民俗博物館本 前九年合戦絵詞』には、棒に吊るした太鼓を力者二人が担ぎ、その脇に桴(ばち)を持った武士の姿がみられる。また、『源平盛衰記』によれば宇治川合戦の最中、義経は平等院より太鼓を借り出しているという。これも祭礼用であろう。
しかし、大規模な集団戦法が普及すると、部隊ごとに太鼓が必要となり、やがて背負紐をつけた陣太鼓が考案された。その使用の様子は『長篠合戦図屏風』(徳川美術館所蔵)に見ることができる。織田、徳川連合軍目掛けて進軍する甲斐武田勢の中に、背後に桴を手にした将兵を従え、陣太鼓を背負った兵の姿があることから画像1 )、戦況を見ながら陣太鼓を打ち鳴らしたものであろう。鉄炮の玉が激しく飛び交い、名立たる将兵が倒れる最前線にても、太鼓を背負う兵は実に軽装備であった。そして軍勢の進退を左右する彼らが標的とされる事もあったであろう。まさに体を張った進軍であった。現存するこの時代の遺例として、加藤嘉明が関ヶ原の合戦で用いた背負陣太鼓(大阪城天守閣所蔵)がある。
豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ケ岳の七本槍として活躍した加藤嘉明は、関ケ原の戦いで東軍として奮戦し、後に伊予松山二十万石の大名となった。大躍進の陰には陣太鼓を背負い、最前線で懸命に桴を振るった名もなき兵があった違いない。



徳川家康所用陣太鼓
徳川美術館所蔵


 本作は、菖蒲革(しょうぶがわ)の背負紐(せおいひも)の付された背負陣太鼓。しかも雨除けの屋根付の枠に収められている。杢目肌が顕著な胴は黒漆塗とされ、三十四個の鋲で留められた革に金箔(きんぱく)が塗られ、中央には黒漆に金の三つ巴紋。太鼓の天地には鉄製の環を附した鉄板が鋲留され、これを天井部に掛け、太鼓下部の環は底板の穴に嵌り、激しく叩かれても外に飛び出さない工夫がされている。革包の断片が遺された木製の桴で叩くと「どんどん」と和太鼓特有の柔らかみのある音が心地よい。決戦ともなれば激しく打ち鳴らされたのであろう、表面の金箔は剥離し革が現れて古色がある。雨除けの屋根は開閉、取り外しが自在で、太鼓本体を引き出すことができる。背板には縦長の穴があり、反対側は格子状となり、湿気と音が籠らないように工夫されている。武士たちの懸命の奮戦を見届けたものであろう。戦陣の音を偲ばせる、頗る珍しい遺作である。



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