黒漆塗日輪梵字蒔絵軍配扇
(織田信長所持)


織田信長-木瀬蔵春庵‐木村庄之助
‐岡部豊後興起‐岡部長‐木村庄之助
明治四十三年臘月吉日吉田追風箱書
(表書 子爵五条為功)注①

桐箱入 金襴袋付



Kuro urushi-nuri Nichirin, Bonji makie, Gunbai
(owened Oda Nobunaga )

owered Oda Nobunaga - Kisekura Shun'an
- Kimura Shonosuke - Okabe Bungo Okitatsu
- Okabe Nagashi - Kimura Shonosuke

Calligraphy on the Kiri Box written by Yoshida Tsuifu in Meiji43
come in Kiri Box, brocade sack





 

 元来、鎧の隙間に風を送るべく、一軍の将たる武士が戦陣で所持したのが軍配。軍勢の指揮権、一国の領有権を表わす言葉と同義で、朝倉孝景は家訓に「不器用の仁に、団扇ならびに奉行職、預けらるまじきこと」と記している。両脇部分が括れた、今日の大相撲行司が所持するような軍配の形になったのは戦国時代。装飾は華やかになり、見栄えの良い作も登場している。戦功のあった家臣への褒賞として、太刀や短刀と共に軍配を与えることもあったという(注②)。
 この軍配は、「拠旧記此軍配扇(旧記に拠ればこの軍配扇は)」の書き出しから始まる明治四十三年吉田追風箱書によれば、天下人織田信長から木瀬蔵春庵が拝受したもの。木瀬蔵春庵は朝廷の相撲節会行司の流れを汲み、元亀元年三月三日近江の力士を集めて、信長の御前で相撲を取らせた際に行司を勤め(『信長公記』巻二)、天正六年二月二十九日安土での御前相撲では御服を下賜されている(『信長公記』巻十一)。組打ちの勝敗を決する相撲は頼朝の昔から武士の必須武芸で、信長も大の相撲好きであった。「天下布武」の思いが込められたこの軍配は、その後、行司木村庄之助の手に渡り、代々伝えられた。そして、幕末明治に立行司を勤めた越前国武生出身の十三代庄之助が明治九年九月場所を以て引退した際、襲名時に支援を受けた元越前藩家老岡部豊後(注③)へ贈ったもの(注④)である。
 軍配は練革に黒漆が塗り施されて朱漆塗の日輪の中に大日如来の梵字が描かれ、裏は黒漆塗に不動明王の梵字が大きく金蒔絵されている。表面には革の収縮による皺が入り、黒漆塗籐巻の堅木柄は手にした人の温もりさえ伝えている。風雲児織田信長の決死の攻防、そして土俵での手に汗握る白熱の名勝負を見届けたものであろう。

注①…明治四十三年、岡部豊後嫡孫で福井県議も勤めた長(ながし)が当時の相撲協会の取締役の友綱貞太郎(関脇海山)を通して相撲故実の家元吉田追風に箱書を依頼。箱表書を認めた「野見宿祢後裔」と伝える五条家第二十四代目の為功(まさこと)子爵も相撲故実の家元で、横綱免許を出した。因みに固山宗次の注文打ちのある稲妻雷五郎への横綱免許は二十二代為定が行った。なお、現当主為義氏は二十六代目。
注②…藤本正行『戦国合戦の常識が変わる本』に詳しい。
注③…文化十一年生まれ。公武合体で薩摩藩と協議。戊辰戦争にあたっては勤王倒幕で藩論統一に尽力した。
注④…明治末から大正初年、岡部長より再び木村家に返還され、以来同家に伝来した。







   

 

 



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