脇差
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肥前刀剣王国の礎を築いた初代忠吉は、佐賀竜造寺家に仕えた武士の生まれ。祖父は天正十二年島原の乱で主君竜造寺隆信と共に討ち死にしており、同じ年に父も病死。幼少の忠吉は武士として主君に仕えることもできず、知行を断念したが、一族の中の鍛冶の家に寄食してその技を修め、成長して鍋島家に認められることとなった。慶長元年二十五歳の時に主命に依り山城国埋忠明壽門に入って鍛刀と彫物の技を磨き、故郷佐賀に帰って慶長五年頃より作刀を世に出し、天賦の才にも恵まれて幾多の名作をものにしている。 注…龍の姿態は略体であっても三鈷柄付剣が真に彫られているところや、やや間延びした彫り口は吉長彫に似ている。 |
Ginza
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