短刀
銘 武威泰平 固山宗平作 嘉永七年八月日

Tanto
Signature. BuiTaihei
Koyama MUNEHIRA saku Kaei 7 nen 8 gatsubi

保存刀剣鑑定書
価格 22万円(消費税込)
Hozon certificate by NBTHK
price 220,000JPY

―玉昆金友

※玉昆金友…学問や才能などにすぐれている兄弟のたとえ。「玉」は、珠玉。「金」は、黄金。転じて、どちらもすぐれていること。「昆」は、兄、「友」は、弟のこと。

 

脇差 生ぶ茎無銘 冬廣
脇差 生ぶ茎無銘 冬廣「

下総国-武蔵国 嘉永七年八月 百六十六年前
刃長 七寸六分六厘 / 無反り / 元幅 八分三厘
重ね 三分二厘
彫刻 表裏 二筋樋掻流し
銀地一重ハバキ 白鞘入
昭和四十四年静岡県登録(8月20日 42624号)

Shimousa - Musashi province
Forged in 1854 (late Edo period) / 166 years ago
Ha-cho (Edge length) 23.3cm / no curvature
Moto-haba (Width at Ha-machi) 2.53cm / Kasane (Thickness) 0.98cm
Engraving: "Futa-suji-hi, kaki-nagashi" on the both sides
Silver single Habaki, Shirasaya




短刀 銘 武威泰平 固山宗平作 嘉永七年八月日 差表切先
短刀 銘 武威泰平 固山宗平作 嘉永七年八月日 差表ハバキ上

短刀 銘 武威泰平 固山宗平作 嘉永七年八月日 差裏 切先裏

短刀 銘 武威泰平 固山宗平作 嘉永七年八月日 差裏 ハバキ上

《名人固山宗次の賢兄》

「玉昆金友」という言葉がある。昆は兄、友は弟を意味し、優れた兄弟のことを言う。 固山宗平は江戸後期に切れ味で鳴らした備前介宗次の実兄(注1)。 陸奥白川城下の刀鍛冶固山宗兵衛宗一の子で、名を宗七という。
 白川松平家(注2)が伊勢国桑名へ転じると文政後期に同地へ移住。すぐ後に弟宗次も桑名入りし、兄弟で合作刀(注3)を物にしている。
 兄弟は更なる技術練磨のために天保初年に出府。長運斎綱俊に師事。飛躍的な進歩を見せる。兄宗平は天保七年、名君土井利位を頂く古河藩に召し抱えられる。
天保年間に宗次が土井侯と上級藩士の為に名刀を打ったのも、古河藩工であった兄宗平の全面的な協力があったことは明らかである。

《激動の時代。茎に込められた決意》

この短刀は江戸後期に盛行した冠落造で、宗平の非凡さを伝える一口。重ね三分二厘と頗る厚く、中程から前の鎬地の肉が削ぎ落され、無反りでふくら充分につき、短寸ながら力強い姿で覇気が伝わってくる。
 小板目鍛えの地鉄は地景入り、細かに肌目が起ち、働きが豊か。
生ぶ刃が残された刃文は、浅い湾れに尖りごころの互の目を配した宗平得意の孫六兼元伝。刃縁は小沸で明るく、焼頭は匂いで尖り、刃中には細かな沸の粒子が充満して冷たく澄む。帽子は小丸、長めに返る。
 

この短刀の作られた嘉永七年(西暦1854年)は、一月にロシアのプチャーチンが長崎に、翌二月にペリーが浦賀に来航。翌三月二十一日には日米和親条約締結に至る。
黒船来航と日米和親条約締結に揺れた時代の風を強く受けた所持者の決意が、茎に刻まれた「武威泰平」の四文字に表れている。

注1 固山宗俊は宗助家で宗平とは別人。地元白川の研究家・丸山栄一氏の「白川生れの刀工・固山宗平」(『刀剣美術』630号)に詳しい。

注2 寛政の改革の立役者松平定信が藩主であった。

注3 「固山宗平造同宗次」と銘した文政十三年二月日紀の刀は伊勢桑名打であろう。(『銀座情報』248号)

注4 渡辺崋山筆の『鷹見泉石像』の鷹見は古河藩家老で、蘭学通。大坂で挙兵した大塩平八郎を捕縛したのが鷹見率いる古河藩であった。
  土井侯は鷹見の勧めで雪の結晶を顕微鏡で観察し、大著をなした。

武威泰平