― 寡作の優工種廣の本領
種廣は、市太郎の名のりを冠する肥前平戸や神崎に住した守俊、守次、盛行らと同じ市太系の鍛冶。遺作は少ないながらも「肥前國住肥後大掾源種廣」と切銘された「透間雲」との添銘入の刀があり(注1、2)、詰んだ地鉄に華やかで明るい乱刃を焼いた作は肥前正廣に近似してしかも出来優れ、忠吉一門との交流を想起させるに十分である。
この脇差は身幅重ね十分で反り浅く、寸法やや延びて中鋒の洗練味ある姿。地鉄は鎬地を柾、平地は中板目に小杢目を交えて詰み、小粒の地沸が均一につき、細かな地景が躍動して弾力味ある肌合い。刃文は直刃に小互の目、浅い湾れを交え、小沸ついて刃縁明るく、小足無数に入り、刃中は匂で澄む。帽子は焼深く残し、よく沸づき、ふくらに沿って小丸端正に返る。
近江大掾忠廣の直刃出来の作と選ぶところのない上々の仕上がりとなっており、寡作の種廣の実力が示されて貴重である。
注1 第39回重要刀剣。なお「透間雲」とは「雲が切れるの意を刀の切れ味にかけたもの」という(『肥前の刀と鐔』)。『日本刀銘鑑』では初二代があり、横山学氏によれば、寛永十七年紀のある初代は栗尻茎で横鑢、二代は入谷形で筋違鑢という特色があるという(『刀剣美術』六百六十二号)。が、寛永から寛文まで一代とみる説もあり、今後の一層の研究が俟たれる。
注2 弊社の研究によれば、種廣の肥後大掾受領は寛文二年六月六日。