昭和三十六年静岡県登録
特別保存刀剣鑑定書
武蔵大掾忠廣は「五字忠」こと肥前國忠吉同人。佐賀藩主鍋島勝茂の命により、慶長元年に上京して埋忠明壽門で修業。元和十年にも再び明壽に就いて学び、武蔵大掾を受領した。忠廣自身、戦火に祖父と父を喪い、武将の栄枯盛衰の厳しさを肌身に感じて生きて来た故であろう、精良ながら詰み過ぎず古色ある地鉄に自然味のある、戦国気質を感じさせる刃文構成を専らとした。
この脇差は、銘形から大坂夏の陣の記憶が残る寛永二年八月頃(注①)の作と鑑られ、鎬地の肉が削ぎ落されて鎬筋が棟に抜ける頑健鋭利な冠落造で、適度に反りが付き、至近の敵や咄嗟の攻撃に素早く抜き放って応じるべく、長い刀に差し副えられた操作性の高い作。板目鍛えの地鉄は鎬地にも板目肌が屈強に現れ、肌目が起って地沸が厚く付き、地底に地景が太く入り、小粒の地沸が輝いて沸映りが立つ。刃文は二つ連れた互の目に尖りごころの刃を交えて抑揚変化し、銀砂のような沸の粒子で刃縁明るく、細かな金線、砂流しが掛かり、沸で明るい刃中に沸足が太く盛んに入る。帽子は焼深くよく沸付き、突き上げて長めに返る。掌中への収まりが良い茎に、銘字が神妙に刻されている。困難な造り込みながら手際よく造られ、志津兼氏を想わせる(注②)刃文も自然味があって見事。忠廣の心技充実ぶりが示された優品である(注②)。