黒石目地塗鞘肥後打刀拵入
拵全長 三尺三寸
柄長 七寸九分五厘
昭和三十二年石川県登録
特別保存刀剣鑑定書
正光は享和二年に安芸国北方の山深い高野村(注①)の刀工正長の子として生まれ、名を石橋兵七という。文政十二年五月に出雲大掾を受領し、天保八年には隣村移原(うつのばら)に移住。多くの刀工が城下町に住んだ当時、正光が山奥で作刀していたのは、同地が江戸初期以来、大谷川を利用した製鉄業が盛んで、また燃料となる松炭となる森林資源に恵まれていた故であろう。広島城下を遠く離れた山中で黙々と作刀し、折々に広島藩主浅野侯に自作を献上している(注②)。
この刀は、身幅広く重ね厚く、反り控えめに中鋒の伸びやかな姿。地鉄は小板目に小杢目を交え、地景細かに入って緻密に肌起ち、小粒の地沸厚くついて鉄色明るい。刃文は直刃、浅く揺れ、小沸ついて刃縁明るく、物打付近はやや沸づいて二重刃ごころとなり、鼠足無数に入り、刃中は匂充満して照度高い。帽子は焼深く、沸づいて小丸、形よく返る。茎は香包み鑢が掛けられ、謹直な書体で銘字が刻されている。附帯する肥後甚吾の鐔が掛けられた黒石目地塗鞘肥後打刀拵は佐藤寒山博士の鞘書の通り当初からの生ぶ拵で、幕末の武士の差料の実情を伝えて貴重。返角に銀象嵌された蟻図は武士の無二に忠の暗示であろうか。南北朝期の備中青江の刀を範に鍛造された、直刃出来の優品である。注①現広島県山県郡芸北町。
注②正光は出雲大掾受領の方法も独特であった。それは地元の木村八幡宮神主佐伯薩摩守の紹介で神道宗家の京都の吉田氏と結縁して行われ、伊賀守金道を通さすことなく受領したのである。少しでも経費を削減するためで、優れた経済感覚と人脈の持ち主であったことがわかる(『広島藩の新々刀』参照)。