黒石目地塗鞘小さ刀拵入
拵全長 一尺八寸六分一厘
柄長 四寸一分二厘
平成八年福岡県登録
特別保存刀剣鑑定書 (関)
戦国時代、毛利の家臣桂民部大輔や桂孫兵衛尉が美濃関の兼長に注文(注①)したように、遠国の武将が美濃刀工に作刀を依頼した例は数多ある。孫六兼元や和泉守兼定らに代表される美濃刀工が強く支持されていたことはもちろん、その脇を固める多くの名工が存在したからに他ならない。兼國(かねくに)もその一人で、需によって播磨国に赴任し、天文十三年二月に同国賀右郡阿開庄で両刃造短刀を、天文二十一年二月には三木淡河の武士村上源吾郎盛定の刀を打つなど、戦国武将赤松政秀の領国で鎚を振るっている(注②)。
幅広く重ね厚めのこの短刀は、反り殆ど無く寸法の延びた力強い造り込み。小板目に流れごころの肌を交えた地鉄は小粒の地沸が厚く付き、淡く湯走りが掛かって地肌締まる。刃文は、刃区保護の目的で焼き落としから始まり、互の目、片落ち風の刃、尖りごころの刃を交えて激しく出入りし、焼深く強く沸付いた帽子は乱れ込んで返り、互の目に丁子を交えた棟焼に連なり、所々に淡い飛焼を配して皆焼の様相を呈す。小沸が付いて匂口の光が強い焼刃は、刃境に小形の金線、砂流しが掛かり、刃中も匂で冷たく澄む。茎は美濃物らしい檜垣鑢が掛けられ、銘字が細鑚で軽妙に刻されている。隣国備前の与三左衛門尉祐定の両刃造を見るような凄みのある一口である。
龍図金具でまとめた、黒石目地塗の小さ刀拵が付されている。注①天正十三年三月吉日紀の桂民部大輔の注文打の刀(『銀座情報』二十五号)、桂孫兵衛尉の需打ちの刀(『銀座情報』三百五十五号)がある。
注②『所持銘のある末古刀』『室町期美濃刀工の研究』参照。なお、赤松家は勝光・宗光が仕えた政則以来皆焼を好み、竜野城主の赤松政秀が重用した天文の五郎左衛門清光にも皆焼の注文打がある。