昭和30年兵庫県登録 保存刀剣鑑定書
明治期の廃刀令後、作刀の伝統を担ったのは帝室技芸員月山貞一、菅原包則、そして北海道室蘭製鋼所の堀井秀明であった。膳所藩工堀井胤吉の甥胤明に学んだ秀明は、大正七年に日本刀剣保存会の高瀬羽皋師の支援で北海道室蘭の製鋼所の専属刀匠となり、高松宮等の宮家や宮内省の御用を務め、昭和天皇の即位奉祝刀を打った(注①)。秀明の優技を受け継いだのが大正九年生まれの嫡子信秀である。 この脇差は、現存稀な信秀の作で、しかも十八歳の若打ち(注②)。身幅広く重ね厚く、中鋒の洗練味ある姿。地鉄は小板目肌が詰み澄み、細やかな地景が入り、小粒の地沸が均一に付いて地肌潤い、刃文に同調した丁子状の映りが地底に窺える。刃文は逆がかった丁子に互の目、二つ三つと連れた尖りごころの刃を交えて高低広狭に変化し、新雪のような小沸が柔らかく降り積もって刃縁は明るく、焼の谷から匂足盛んに入り、刃中は匂で澄み照度が高い。帽子は焼を充分に残し、乱れ込んで小丸に返る。製作時そのままの茎の保存状態は極めて良好で、未だ白く輝き、細かな筋違鑢が丁寧に掛けられ、銘字は父秀明に酷似し、真円形の目釘穴にも好感が持てる。特別の注文打ちであろう、出来優れ、清々しい仕上がりとなっている。 注①昭和九年、明仁親王(平成天皇)に憚って秀明を俊秀と改める。 注②『日本刀銘鑑』に載せられている遺作は昭和三十年~四十年代の作である。
明治期の廃刀令後、作刀の伝統を担ったのは帝室技芸員月山貞一、菅原包則、そして北海道室蘭製鋼所の堀井秀明であった。膳所藩工堀井胤吉の甥胤明に学んだ秀明は、大正七年に日本刀剣保存会の高瀬羽皋師の支援で北海道室蘭の製鋼所の専属刀匠となり、高松宮等の宮家や宮内省の御用を務め、昭和天皇の即位奉祝刀を打った(注①)。秀明の優技を受け継いだのが大正九年生まれの嫡子信秀である。 この脇差は、現存稀な信秀の作で、しかも十八歳の若打ち(注②)。身幅広く重ね厚く、中鋒の洗練味ある姿。地鉄は小板目肌が詰み澄み、細やかな地景が入り、小粒の地沸が均一に付いて地肌潤い、刃文に同調した丁子状の映りが地底に窺える。刃文は逆がかった丁子に互の目、二つ三つと連れた尖りごころの刃を交えて高低広狭に変化し、新雪のような小沸が柔らかく降り積もって刃縁は明るく、焼の谷から匂足盛んに入り、刃中は匂で澄み照度が高い。帽子は焼を充分に残し、乱れ込んで小丸に返る。製作時そのままの茎の保存状態は極めて良好で、未だ白く輝き、細かな筋違鑢が丁寧に掛けられ、銘字は父秀明に酷似し、真円形の目釘穴にも好感が持てる。特別の注文打ちであろう、出来優れ、清々しい仕上がりとなっている。
注①昭和九年、明仁親王(平成天皇)に憚って秀明を俊秀と改める。 注②『日本刀銘鑑』に載せられている遺作は昭和三十年~四十年代の作である。