出羽国‐武蔵国 天保十二年 百七十七年前
刃長 二尺八寸
反り 八分
元幅 一寸一分四厘/先幅 六分七厘強
棟重ね 二分三厘/鎬重ね 二分三厘
彫刻 表裏 棒樋掻流し
金着二重ハバキ 白鞘入
『新々刀大鑑 巻之一』所載
平成三十年東京都登録
特別保存刀剣鑑定書
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Dewa - Musashi province / Tenpo 12 (AD1841, late Edo period) / 177 years ago
Hacho (Edge length) 84.8p / Sori (Curvature) approx.2.43p
Motohaba (width at Ha-machi) approx.3.45p / Saki-haba (wdith at Kissaki) approx.2.03p
Kasane (thickenss) approx. 0.7p
Engraving: "Bo-hi, kaki-nagashi" on the both sides
Gold foil double Habaki, Shirasaya
Put on "Shinshinto Taikan” Vol.1
Tokubetsu-hozon certificate by NBTHK
直胤は安永八年羽州山形城下の鍛冶町に生まれ、名を庄司箕兵衛という。江戸の水心子正秀に入門して師の復古刀理論を実践、景光、兼光に私淑した備前伝や、正宗、郷、志津を範とした相州伝の作を手掛けて高い信頼を得た、江戸後期屈指の名工である。
長寸のこの刀は、直胤が駒澤知幾の需で精鍛した、相伝備前兼光写しの大作。駒澤は佐倉藩士西村芳高の外孫で名を藤右衛門といい、立身流兵術(注@)の達人。身幅広く重ね厚く、腰反り高く中鋒に造り込まれ、棒樋が深く掻かれてなお手持ち重く、打ち合いにおける強靭さと截断の威力を秘めている。小杢目鍛えの地鉄は柾肌を交えて詰み、流れるような肌目に沿って穏やかな地景が働き、濃淡変化に富んだ地沸も肌に沿って現れ、地鉄が一段と冴える。片落ち風の刃に丁子を交えた刃文は、湯走りが幾重にも掛かってその一部が飛焼に変じ、刃中には長短の足が射し、長い金筋を伴う沸筋が層を成して元から先まで躍動し、細かな沸の粒子が充満した刃中は水色に澄む。帽子は乱れ込み、強く掃き掛けて浅く返る。一尺一寸の長さの茎は鑢目美しく細鑚の銘字が鮮やか。天保改革期、佐倉藩では蘭医学、砲術、兵学が積極的に研究(注A)され、天保十二年五月九日徳丸ヶ原での高島秋帆の洋式砲術実演には藩士兼松繁蔵らが参加、後には多くの藩士が高島流を修めた江川太郎左衛門の韮山塾に入門している。直胤は江川の鍛刀の師(注B)。駒澤は入塾した佐倉藩士を介して、直胤に長大なこの刀を特注したのであろう。「運用之妙存於一心(注C)」即ち、兵法は知識以上に実践が肝要との添銘に、内憂外患に立ち向かう武士の意気込みを滲ませる歴史的な一刀である。
注@…室町後期永正頃立身三京の創始と云う。居合、剣術、柔術、槍、薙刀、棒術、縄術、手裏剣、弓矢、馬術等からなり、丸腰にても活路を見出すことを宗とした兵法。福沢諭吉は分派立身新流の達人。
注A…阿片戦争で清国が英国に屈したとの報に幕閣、諸藩上層部は驚愕。国防強化が急務となった。
注B…小島つとむ「伊豆韮山代官・江川太郎左衛門英龍と大慶直胤―その密な交流に垣間見る江戸後期の日本」(『刀剣美術』七〇七号、七〇八号)参照。
注C…『宋史』の「岳飛傳」の「陣而後戦、兵法之常、運用之妙、存乎一心」(乎は於と同義)。
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