鉄五枚張黒漆塗
置手拭形兜
紀伊国 桃山時代
高さ 約一尺六寸五分(50㎝) 横幅 約一尺五分(31.5㎝) 奥行 約一尺(30㎝)
釘抜紋前立(いずれも展示の寸法)

 


 雑賀鉢に代表される置手拭形兜は、直線的で角張る造形の鉢に切鉄と呼ばれる鍛鉄を補強や装飾とした作と、曲面を主体とした穏やかな兜姿の二様に大別される。特に後者は、戦国時代に普及した火縄銃への備えとして頭形兜や南蛮胴が登場したように、弾丸の威力を効果的に受け流す必要から、暫時その形状が流線形へと改良されたものと考えられる。
 表題の兜は、このような時代の要求によって製作された置手拭形の典型。鉢は天辺の板二枚、正中の一枚、側頭部から後頭部を保護する二枚、そして腰巻板の、合わせて六枚からなる構造(注①)。置手拭の呼称は言うまでもなく、頭頂部が折りたたんだ手拭をのせたような形状となっていることからのもので、接ぎ合わされた板が弾丸を受け流す要となっている点が特徴。この構造は、火縄銃の扱いに精通した雑賀衆ならではの工夫であろう。
雑賀衆は雑賀孫一(注②)に代表されるごとく、火縄銃を扱わせては戦国最強と謳われる一族で、歴史に残る織田信長の石山本願寺攻めにおいて、織田軍に何度も煮え湯を飲ませた逸話は殊に名高い。雑賀衆は火縄銃の効果的な攻撃法はもちろん、その防御法についても研究を重ね、豊富な戦闘知識を有していた。
 例えば物陰に身を隠す兵が攻撃に移る瞬間、敵に身を晒すこととなる。その頭頂部が遮蔽物より僅かに覗く程度であろうが、鉄砲隊はまさにその刹那を狙って撃ち掛ける。しかし、置手拭のなだらかな表面は弾丸を後方に受け流すのに理想的な形状。雑賀衆はこの兜に己の命を託していたとも言い得る。
 正中の接ぎ板の下部は眉庇と一体となり、抉り込みと呼ばれる切れ込みが施されて視野の確保が図られている。広い額を守るために打眉と呼ばれる眉尻の切り上がった鍛鉄が据えられ、その土台となる接ぎ板の表面は僅かに打ち出されてふくよかに盛り上げられている。打眉の下を打ち出すのはこの部分が頭部の急所であり、着弾した丸の威力を軽減するために他ならない。ここでも、本作が実戦の中で生み出された実用の利器であることを雄弁に物語っている。鉢の側面には左右共々三本の鋲が深々と穿たれている。また、前正中の板と側面の接ぎ板の重なる部位が三寸強に及んでおり、これを補強するために三本の太い鋲で頑丈に補強がなされている。この鋲も単なる飾りではなく敵の弾丸を二重の接ぎ板の強度で跳ね返すことを目的として設けられたもので、実戦の厳しさがヒシヒシと伝わり来る造作である。一方、防御の必要性の低い、後正中の接ぎ板の重なる部分は僅かに三分に満たず、前正中、左右側面と比較した場合、その強度は雲泥の差であろう。むしろ、冷徹な計算を感じさせる点で興味深い。置手拭に喩えられる天上板の厚さは最も厚く、左右それぞれ四点、計八点の共鉄鋲で前正中の上部に頑強に打ち据えている。鉄鋲は荒削りで雄々しく、雑賀の益荒男振りを感じさせるに充分である。
鉄地黒漆塗日根野五段の綴は浅葱色絲の素懸縅し。古様式の頭の丸い丸鋲に小刻みの座金を噛ませて四ケ所を鋲止めしている。前立には「九城を抜く」に通じる武門の家紋である「釘抜紋」を戴き、表面を銀陀美に塗って渋い色彩に纏めている。

注①…通常腰巻の板は接ぎ板に含めないことから、鉄五枚張兜となる。
注②…雑賀孫市とも表す。孫一は雑賀鈴木氏が名乗る通称で、諸説ある が、一般的には鈴木重秀を指す。



 


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