本間薫山博士鞘書
徳川家康と伊勢村正の刀との因縁は浅からぬものであった。家康の祖父清康は村正の刀で斬殺され、父廣忠も村正の刀で暗殺。我が子信康の切腹で介錯に用いられた刀も村正であり、家康自身も村正の小刀や槍で負傷している。信康の死に村正の刀が関わった事は決定的で、家康の、「村正は当家に祟る」の思いは、後の幕府内の認識として定着し(注①)、やがて世間に流布したのである。それを元に江戸時代の劇作家が脚色し、心変わりした芸者花魁を村正の刀で斬殺する物語が歌舞伎や浄瑠璃で盛んに上演され、「妖刀村正伝説」は広く喧伝されるとともに世に定着したのである。
ところが、作品から窺い知れる村正の人間像は妖刀とは全く無縁と言わざるを得ない。村正の永正十天癸酉十月十三日紀の刀(鍋島家伝来 重美)には「妙法蓮華経」の文字彫があり、しかも日付は日蓮上人命日である。また、日蓮宗僧侶日仁の需で「百書千祈日仁」と切銘した刀(注②)もあることにより、村正は日蓮宗の信徒であったことが知られている。さらに、天文年間には地元の春日大明神と三崎大明神、神立神社への奉納刀と剣を精鍛しており、村正の神仏尊崇の姿勢は明らか。いずれも高品位で、切れ味と操作性を追求して考案された魚の鱮を想わせる茎形に終始し、作刀への一途で篤実な人柄は歴然である。
表題の短刀は天文頃の作で、棟を真に造り、幅広で重ね薄く反り浅く寸法の延びた好姿。板目鍛えの地鉄は地景が太く入って生気に満ち、地沸厚く付いて淡い沸映りが立つ。刃文は箱がかった刃、浅い湾れ、尖りごころの互の目を交えて小気味よく変化し、純白の小沸で匂口の光強く、刃境に湯走り、小形の金線、細かな砂流しが掛かり、処々に相州正宗の雪の叢消えを想わせる粒立った沸が付き、刃中も沸で明るい。帽子は激しく乱れ込み、強く掃き掛けて返る。鱮腹形茎の太鑚で強く刻された二字銘は鑚の線が清く澄み、上身の出来への自信を感じさせる。村正の鍛刀一筋の実直な人柄と優技が示された逸品である。
注①…寛永十年の長崎奉行竹中采女正重義の汚職で断罪の決め手は「当 家において忌むならひ」の二十四本の村正刀の押収であった(『徳川実紀』)。
注②…『銀座情報』六十三号。第十二回重要刀剣等図譜には、日仁を日 蓮宗僧侶、そして村正が日蓮宗の信者であると明記されている。
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