平成二十八年千葉県登録
特別保存刀剣鑑定書(手掻)
寸法の長い太刀を自らの身体や剣術の流儀に合わせて磨り上げた脇差で、手掻と極められている。手掻派は鎌倉末期から南北朝時代に、大和国の東大寺輾害門前に鍛冶場を設けていた包永に率いられた一門で、今でも東包永町、西包永町の町名が遺されている。包永、包貞、包清等「包」の字を通名とし、東大寺や興福寺の荘園を守る武士の需で鎚を振るい、柾がかった地鉄に沸の強い直刃調の焼刃を作風として隆盛した。
この脇差は、磨り上げてもなお身幅広めに重ねが厚く、棒樋が掻き通されて姿が整い、反りを控えて中鋒とした力強い造り込み。現状でも南北朝期の大太刀の面影が遺されている。大和物の特色が顕著な地鉄は、板目に流れごころの肌を交えて地景が密に入り、粒立った地沸が厚く付いて鎬寄りに映りが立つ。直刃調の刃文は浅く揺れ、小粒の沸が付いて刃縁の光が強く、刃中は匂で澄む。焼刃は物打付近が一段と強く沸付き、刃境に湯走りが掛かり、大きな喰い違い、二重刃を交え、帽子も強く沸付いて二重刃となり、突き上げごころに小丸に返る。総てにおいて大和色が濃く、放胆で力強い地刃となっている。江戸期の武士が大小一腰の小刀とした作で、大和本国、殊に手掻派の魅力横溢の一振である。