銘 石堂藤原是一作 明治二十一年八月日
石堂藤原光一精鍛之

東京府芝新門町 明治二十一年 百三十二年前
是一 六十九歳 光一 四十六歳

刃長 二尺三寸三分七厘(70.8㎝)
反り 五分三厘
元幅 一寸一分八厘半
先幅 七分八厘半
棟重ね 二分五厘半
鎬重ね 二分七厘

石堂運壽是一は文政三年正月二十四日生まれ。天保十年二月に幕府御用鍛冶石堂是一六代の養子となり七代を襲う。是一は長運斎綱俊子とされる一方、山田浅右衛門押形には綱俊甥とあり、父については詳らかならざる点があった。ところが、是一の『刀剣造法免許巻(嘉永六年)』(注①)に「實者加藤綱俊忰」と記され、また近年、刀剣博物館に寄贈された『石堂是一家文書』の『明治五年壬申年十月改正書上籍』に「加藤八郎亡次男」とあり、綱俊次男であったことが証される。綱俊は米沢藩上杉家の刀工で、固山宗次の事実上の師。詰んだ地鉄に乱刃や直刃の冴えた優作が是一に多い理由は、長運斎綱俊の感性と技術を伝えた故であった。
 嘉永六年、黒船の来航により運壽是一に転機が訪れた。国論が開国と尊王攘夷で紛糾し、やがて倒幕機運が高まり王政復古が宣言され、明治政府が誕生する。是一は職を失い、明治五年、「平民鍛治職石堂助三郎」として戸籍に記された。
 しかし、旧幕府御用鍛冶石堂是一の商標(ブランド)は不滅。是一は、通称助三郎で届けたため、本名是一が「名前違」とされ不都合が生じたことから、明治十一年四月に東京府知事に戸籍訂正を申請したのである。知事は嘆願を却下するも、芸業上の別号使用を容認している。興味深いこの資料は、明治期における「刀鍛冶是一」の活動の証である。
 表題の刀は明治二十一年八月、嫡子光一との合作(注②)。身幅広く重ね厚く平肉が付き、刃区に生ぶ刃が遺され、猪首鋒の健全無比の体配。小杢目鍛えの地鉄は詰み澄み、地沸が微塵に付いて鉄色晴れ、これに互の目丁子乱刃が冴える。未だ白く輝く茎の、親子の銘字には鑚枕が立つ。明治期の運壽是一の健在を伝えて頗る貴重である。

注①…銀座長州屋所蔵。

注②…『日本刀銘鑑』所収の「石堂藤原是一明治廿一年八月日石堂藤原光一精鍛之」の銘文は本作。光一は名を助太郎という。弘化元年四月二十八日生まれ。

 

 

是一光一押形

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