昭和二十六年山梨県登録
特別保存刀剣鑑定書
忠吉五代は近江大掾忠吉の子で元禄九年の生まれ。名を橋本新左衛門といい、初め忠廣と銘を切り、延享四年九月九日、父を黄泉に送った後、忠吉の工銘を襲った。長寿であった父の作刀に協力したため自作は少なく、近江守を受領した寛延三年には既に五十五歳であった。六十一歳となった宝暦六年には鍋島侯の命で、佐賀城下の太神宮、仁比山神社、徳善院への奉納刀(注①)を打ち、忠吉家の当主としての責務を全うしている。
この刀は、二寸半程区が送られて尚寸法が長く、身幅広く重ね厚く中鋒の、威風堂々の体配(注②)。肥前の小糠肌とも呼ばれる鉄色晴れやかな地鉄は、良く詰んだ小板目肌に地沸が微塵に付いて潤い、細かな地景が網状に働く。鑚使いの見事な刀身彫刻は、忠吉一門の彫師忠長の手になる倶利迦羅で、三鈷柄剣に絡みつく身体の際を鋭く彫り下げ、細部まで鋭利な鑚で緻密に彫って生気に満ち、今にも動き出さんばかり。刃文は得意の広直刃で、僅かに小互の目小丁子を交えて浅く揺れ、純白の小沸で刃縁が明るく、特に中程から先は一段と深く沸付き、淡く小足が入り、匂で霞立つ刃中に葉が華麗に舞う。帽子は、ふくらに沿って綺麗な小丸に返る。茎には忠吉五代の特色の顕著な銘が鑚強く刻され、「彫物同州忠長」の添銘(注③)も貴重。五代目の冴えた地刃に忠長の両面彫が映えた同作中の傑作である。