昭和四十三年東京都登録
特別保存刀剣鑑定書 (五代)
鎌倉時代後期の山城来派の直刃、備前一文字風互の目丁子出来などを手本として隆盛した肥前忠吉家は、慶長の忠吉に始まる。その五代目は四代近江大掾忠吉の嫡子で元禄九年の生まれ。幼い頃から鍛冶業に接していたものであろう優れた感性と高い技術に恵まれ、享保元年頃より作刀を開始しした。初期には忠廣銘を用いて延享四年の先代没後に忠吉銘を襲い、近江守を受領したのは寛延三年、以降八十歳の長寿を得たが、刀の需要の低い時代背景から作品数は比較的少ない。青壮期とも言うべき忠廣銘時代には覇気に富んだ身幅の広い造り込みが多くみられ、近江大掾忠廣に次いで寺社への奉納刀が多いことも特徴的である。
元先の身幅広く重ねの厚いこの刀は、さらに寸法が伸びて腰で深く反った堂々たる太刀姿。微塵に詰んだ小杢目鍛えに微細な地沸の付いた小糠肌は、肌目に沿って細い地景が網目のように入り組んで澄み、江戸中期最上質の潤い感に満ち満ちて爽やかな出来。浅い互の目の焼き込みから始まる小互の目丁子の刃文は、焼頭が穏やかに高低して連なり、物打辺りが一段と焼きが強まり、帽子は浅く湾れ込んで二重刃状に沸が流れ、先小丸に返る。小沸の幅に強弱変化のある帯状の焼刃に特徴がみられる肥前刀の本質は、本作の如き互の目乱刃でも同様。互の目に小丁子が複式に入って出入りは複雑、長短の足が頻りに射して飛足、葉となり、刀身中程には連続した葉に匂が絡んで一際鮮やかとなり、物打辺りには匂の砂流しが掛かり、肥前上作に特徴的な虻ノ目乱が随所に現れている。