達者図立像

銘 乙柳軒政随

江戸時代中期
武蔵国江戸神田竪大工町
黒檀彫 目に真鍮象嵌
製作時の桐箱付 箱に「達者」の墨書
高さ 六寸(180mm) 幅 二寸(60㎜)

牡丹獅子韃靼人図目貫 無銘 蝦夷

江戸の装剣小道具の表現は、土屋安親、奈良利壽、杉浦乗意の三名工に浜野政随を加えた四天王と呼ばれる奈良派の町彫金工によって大きく開花した。殊に政随は奈良派の伝統的作風を継承して躍動感に溢れた人物描写を得意としたのみならず、画題の幅を広げることによって奈良派独特の絵画的表現に物語性を加味した新趣の作風を追求して人気が高まり、多くの門人を育成して栄えたのみならず、後の装身具など飾り金具へと技術的発展をも後押しした職人であり芸術家であった。
とは言え、政随が金工の技術を学んでいた時代、自らを芸術家とする意識は希薄であったに違いない。その一方で、師匠利壽や先達である安親が装剣小道具の製作に自身の総てを注ぎ込んでいる姿を目の当たりにしたであろうし、その気迫に心打たれて自らもそうありたいと願ったであろう。創造する者の常として、師をあるいは目標とする先達を越えようとすることによって前進することは紛れもない事実であり、政随は利壽や安親の背を見ながらもその先の世界を眺めていたのである。
政随は浜野太郎兵衛と称し元禄九年の生まれ。奈良利壽に師事して独立し、職人が軒を連ねる神田竪大工町に細工場を開いた。安親と同様に様々な分野に興味を持ち、知識旺盛で学ぶことを疎かにせず、新たな題材への追求も一様ではなかった。その評判を聞いて門を叩いた若手の職人も多く、門下から兼随、知随、矩随、政信、興成など多数の名工が巣立っている。特筆すべきは、漢学に親しんで古典の知識が豊富であったことで、これも作品に活かされている。 政随が心の師としたのは同じ奈良派の先達だけではなかったと思われる。参考写真の政随作月下読書図縁頭が良い作例で、古代中国の賢人に題を得、鉄地に変化を付けて背景を山水風の景色とし、高彫象嵌に鏨を加えて人物を浮かび上がらせている。彫刻技法や色金の使い方などは異なるが、金家の彫り描いた李白に杜甫図鐔(『銀座情報』三八五号掲載)や羅漢図鐔(『銀座情報』三九七号掲載)を思わせる印象深い作となっている。
金家は教養のある武士であり、職人を越えた位置付けとされるべき、桃山時代としては異質の芸術家であった(『銀座情報』三八八・三九一号他参照)。製作の背後には禅の教えがあり、作品を作り出すことこそが禅であり、金家は作品が己そのものであるとの認識で鏨を操っていた。
禅とは、形のあるものではなく、己が成す行為。座して壁に向かい問い続けた達磨がいるも、その真似をしたところで禅を体得できるものでない。禅は理論や学習ではなく体感すること、直覚すること、考えて得られるものではなく、行動の中から悟り得るもの。金家は鐔の製作を行と捉えていたに違いない。
安親もまた、自己を達磨に擬えた白檀製の立像 (『安親』より・写真参照)を製作している。この達磨立像は背面に銘と法号が刻されていることから、安親自身が生前に製作した位牌であると考えられている。死期を悟った安親が白檀の一木に向かい合ったのは、達者(真理を悟り得た者)である達磨に至らんと願ったからであろう。果たして安親自身は達者になり得たであろうか。
政随は、時に金家の作風に学び、時に安親の作風に独創を加えるなど、創造することに心血を注いだ。そして業成り、名声を得たにもかかわらず、心の奥底に淀んでいる何かを掬い出せずにいた。このままで良いのだろうかという自問は作家であれば誰もが感じ得る迷い。政随が禅の教えを皮相的にしか捉えてこなかったことに気付いた瞬間こそ悟りであり、意識改革であった。そして安親がしたように、達磨に擬えた自身の立像を彫り上げるという行為へと向かうこととなった。即ち政随は、彫り続けることこそ達者への道であると悟ったのである。  

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